ANAショッピングサイト astyle
ゴルフアイテム特集
astyle ANAショッピングサイト

(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 10 September 2006

『寺田屋』の中に入ります。
(注)旅館「寺田屋」(京都市伏見区)の建物が再建されたものだったとの可能性が指摘された問題で、京都市は、調査の結果「当時の建物は焼失したと考えるのが妥当」との見解を発表しました。また同施設に対して、観光客らに誤解を与えることがないような対策を取ることを要請しています。(2008年)

坂本龍馬 寺田屋
坂本龍馬 寺田屋

寺田屋の二階

坂本龍馬 寺田屋
坂本龍馬 寺田屋

寺田屋の二階

二階の掛け軸です。この画は、女将お登勢が龍馬に奨めて、町の画家に描かせたものだそうです。円山公園の銅像はこの肖像画をもとに作られたとか。

坂本龍馬 寺田屋

寺田屋の二階

坂本龍馬 寺田屋 弾痕

寺田屋の柱についた弾痕

おりょうが急を知らせるために駆け上がった裏階段と入浴していた風呂場

薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では、入浴していたおりょうは風呂から飛び出して裸のまま龍馬に急を告げ、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、龍馬の危機を救うという意外に活発な女性でした。美人で教養の持ち主だったおりょうは、海援隊士らに姉さんと慕われたそうです。土佐藩大監察佐々木高行は日記には、「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」とあります。ちょっとつかみどころのない女性だったのでしょうか。龍馬の死後、三吉慎蔵のもとにいましたが、明治元年、龍馬の高知の実家に移りました。しかしその生活は一年ほどで、それからは京都に戻っています。やがて西郷隆盛らを頼って東京に出、明治8年に旧知の商人である西村松兵衛と再婚し、西村つると名乗りました。晩年は横須賀で暮らし、貧窮の中で明治39年に亡くなっています。享年66歳でした。

坂本龍馬 寺田屋 裏階段
坂本龍馬 寺田屋 風呂場

寺田屋の裏階段と風呂場

坂本龍馬 避難の材木小屋跡 ※現地案内板より

慶応2年(1866)1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて豪川沿いの伏見薩摩邸に駆け込みました。この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は豪川の左岸南方にあったといわれています。
藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を揚げた船を出して龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙ににも記されています。龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩邸の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
※坂本龍馬避難の材木小屋はこの石碑の建つ川の右岸より橋を東に渡った川の左岸南方の辺りにあったと伝えられています。

坂本龍馬 避難の材木小屋跡

避難の材木小屋跡

坂本龍馬 避難の材木小屋跡そばの川

避難の材木小屋跡そばの川