明治をとらえる上で重要なキーワード『廃藩置県』、先ずは荒城・岡城址をご欄ください。
明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げですべてが取りこわされました。
(*無断での写真の転用は禁止いたします)
大手門は、城の正面に位置する門で、追手紋と本来いう。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させるのが目的であった。大手門には、侍番が置かれ城中への出入りにはかなりの注意が払われていた。
※現地案内板より引用
滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校の唱歌『荒城の月』を作曲、発表している。
※現地案内板より引用
以下、司馬遼太郎氏著:『明治という国家』よりそのまま引用もしくは参考にしています。
明治四年(1871)の廃藩置県。この日本史上、最大の変動の一つについてお話します。これは、その四年前の明治維新以上に深刻な社会変動でした。
同時に、明治維新以上に、革命的でもありました。
大変なものでした。日本に君臨していた二百七十の大名たちが、一夜にして消滅したのです。士族---お侍さんですね---その家族の人口は百九十万人で、当時の人口が三千万としますと、6.3%にあたります。これらのひとびとが、いっせいに失業しました。
革命としかいいようのない政治的作用、外科手術でした。これが他日、各地に士族の反乱をよび、また西南戦争(明治10年)という一大反作用を生む撓みになりました。ところが当座はじつに静粛におこなわれました。
大名や士族にとって、廃藩置県ほどこけにされたことはありません。
明治維新は、士族による革命でした。多くの武士が死にました。この歴史劇を進行するために支払われた膨大な経費---軍事費や、政略のために費用---はすべて諸大名が自腹を切ってのことでした。
そのお返しが、領地をとりあげ、武士は全て失業、という廃藩置県になったのです。なんのための明治維新だったのか、かれらは思ったでしょう。
新政府指導者たちにとって、官軍を構成する武士階級がこれまで持ち続けた討幕・攘夷エネルギーや武士としての既得権を失うことへの不安を新国家建設の方向へ転換させ、同時に各藩がもつ領民の徴兵権と徴税権を新政府に移行させるということを、いかにその不満爆発を防ぎながら円滑に行うかが最重要課題でした。
二百七十年余にわたって続いてきた制度を根本から変えるというこの社会革命は、当然藩主の抵抗も予想され、徐々に変革を進める必要がありました。そこで先ず藩主から朝廷に版籍(領地と領民)を奉還させ(明治2年:版籍奉還)、その上で藩主を知藩事に任命し、さらに彼らの家禄を石高の十分の一に定め、各藩の藩政と家政を財政面から完全に分離させ、藩士を「士族」とすることで藩主―家臣の主従関係を完全に絶つことから実施しました。
また、新国家建設のため鉄道などの基盤整備事業が実施に移されると同時に、逼迫する財政事情に耐えかねた井上馨ら大蔵省井上馨から、財政基盤の整備が火急の課題だという声が沸き起こるのは当然のことでした。徴税制度の確立を急ぐためにも完全なる『郡県』の実施、すなわち廃藩置県を求める動きが高まったのです。
しかし当時独立王国のように新政府すら軽視していた雄藩である薩摩藩を口説かなければ廃藩置県は実現しません。そのためには絶対的声望のある西郷隆盛の協力が必要でした。兵部小輔山県有朋は、当時日本橋蠣殻町に仮住まいしていた西郷の寓居を訪ねます。
山県は西郷が聴き入れなければ、刺し違えることも覚悟して、廃藩置県の必要性を西郷に説きました。これに対し西郷は『わたしンほは、よろしゅうごわんが』といっただけといわれています。
私んほうというのは、薩摩藩のことです。薩摩藩としては異存がない、ということですが、とんでもないことで、久光とその配下は大反対している。西郷は死を覚悟して余計なことはいっさい言いませんでした。この支持が決め手となり、明治四年、在京諸侯が朝廷に参集する中、廃藩の詔勅が下されました。知藩事の諸侯達は領地を去り、華族となって東京に住むこととなるのです。
廃藩置県は、薩摩藩をもふくめほぼ無血におわりました。久光は大いに憤り、ふたたび、西郷を『叛臣』だとののしり、桜島を目の前にした海岸の別邸で、海岸に石炭船をつながせ、そこで花火をうちあげさせて、終夜それを見つづけたというのは、廃藩置県の報がつたわった夜でした。
春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして 千代の松が枝 わけいでし むかしの光 いまいずこ
秋陣営の 霜の色 鳴き行く雁の 数見せて 植うる剣に 照りそいし むかしの光 いまいずこ
今荒城の 夜半の月 かわらぬ光 たがためぞ 垣にのこるは ただ葛 松に歌うは ただ嵐
天井影は かわらねど 栄枯は移る 世の姿 写さんとてか 今もなお 嗚呼 荒城の夜半の月
これは滝廉太郎作曲の『荒城の月』の詩(土井晩翠作詞)です。
この詩人と音楽家の二人の想念にあらわれた『荒城』は、いずれも、明治四年の廃藩置県のあと数年のあいだにこわされた城どもであります。
廃藩置県の目的は何か