佐世保

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Last Updated: 17 December 2011

明治16年8月、軍艦第二丁卯(ていぼう)が佐世保港の測量に派遣されました。このときの第二丁卯艦長は東郷平八郎少佐で、天然の良港に着目された佐世保港はこれより軍港として大きく発展していきます。軍港設置直前には人口4千人の寒村が、設置後は約5万人となり町を経ず市へと昇格します。(明治35年4月)

佐世保港資料

軍港 佐世保港

佐世保港資料

軍港 佐世保港

佐世保港資料

佐世保港

明治37年(1904)2月6日、東郷平八郎司令長官の連合艦隊はここ佐世保港より出航し旅順へ向いました。
『わが連合艦隊は、ただちにこれより黄海にすすみ、旅順口および仁川港にある敵の艦隊を撃滅せんとす』

また日本海海戦での勝利後の明治38年(1905)9月11日、佐世保港に帰還していた戦艦三笠(連合艦隊旗艦)の弾薬庫が爆発、艦は炎上しこの港に沈没しています。三笠はその後引き上げられ修復、大正12年(1923)まで軍艦として活躍しますが、廃艦後に保存運動がおこり現在は横須賀で記念艦三笠として展示されています。

現在の佐世保港

佐世保港

佐世保市神島町方面よりの眺望

佐世保港

佐世保市神島町方面よりの眺望

佐世保海軍病院 東郷平八郎、ロジェストヴェンスキーを見舞う

東郷平八郎、ロジェストヴェンスキーを見舞う

東郷平八郎、ロジェストヴェンスキーを見舞う

明治38年(1905)6月、東郷平八郎司令長官は、佐世保海軍病院にロジェストヴェンスキー(ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー)中将を見舞いました。東郷平八郎は真に礼節を尽くした態度で接したため、ロジェストヴェンスキーは深い感銘を受け、生涯東郷平八郎を尊敬し続けたといわれています。またロジェストヴェンスキーは日本海海戦を勝ち目の無い戦であることを予測していたともいわれています。

以下、ウィキペディアの日本海海戦より引用しました。

ロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。当時の日本は戦時国際法に忠実であり、国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも戦時法遵守が末端の小艇の水兵にまで徹底されていた。ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできた。日本の戦時国際法の遵守には世界各国から賞賛が寄せられた。

ロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。病室にはいるとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気づかいながらゆっくり話し始めた。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督をねぎらった。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ涙を流した。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。