防府天満宮正面の境内には、明治維新まで9つの社坊が立ち並んでいて一山の総称を酒垂山満福寺ととなえた。その中でも大専坊は、9社坊を支配する別当坊であり大きな役割を果たしてきた。尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方の諸士の屯所となった史跡である。
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Last Updated: 4 April 2010
関ヶ原の戦い後、毛利氏は天然の良港である三田尻に築城することを幕府に申し入れますが許されず、意図的に山陰の僻地であった萩に押し込められる結果となりました。築城はかないませんでしたが、ここにはかつての毛利水軍が移り住んでおり、御船手組の根拠地とし整備が進められました。萩と三田尻を結ぶ基幹道路の萩往還が完成すると三田尻御茶屋が築造されるなど大いに栄えます。また幕末においては勤皇の志士たちにとっても非常に重要な役割を担う港となります。
暁天楼(ぎょうてんろう) ※現地案内板より
暁天楼は、天満宮表参道第一鳥居から東へ半丁、宮市前小路に営む大旅籠「藤村屋」の建物の一部で、階下は漬物置場、二階に隠れ座敷をもつ。幕末維新激動の際、九代当主藤村孫七が尊皇の志が篤かったので、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、坂本龍馬等の志士達が、東奔西走する活動の途次、しばしば投宿し密議を計ったと伝えられ、近代国家誕生の一端を担った貴重な史跡である。この楼は、もと適義楼と呼ばれたが、山縣有朋等の発意により「冥味中に光明発動する」の意をもって暁天楼と改称された。大正四年に酒垂山西麓の神苑内に移築されたが、老朽が甚だしくなり、昭和三十年に惜しくも解体された。昭和五十八年秋、藤村屋の後裔、十一代当主で横浜市在住の藤村造作氏がこの楼との旧縁を偲ばれて暁天楼復元の願主となり巨資を寄進され、此処、旧圓楽坊跡地に楼の絵図面のままに復元再建したものである。
芳松庵 ※以下、防府天満宮ウェブサイトより引用
菅公は文化としての茶の基を築き、「茶聖菅公」と称されていました。建物は1100年式年大祭の記念事業として建築家大江宏氏の設計により、平成3年春に建立されました。中は30畳の大広間と、8畳の和室を持つ主屋、茶室「芳松庵」、外待合があります。2階床柱、及び炉縁には伊勢神宮の古材を使用しています。
※以下、防府天満宮ウェブサイトより引用
延喜4年(904)に周防の国司、土師信貞によって祠が建てられて以来、大内氏毛利氏の歴代当主などにより本殿・回廊・楼門などが次々と御造営造替をされました。日本建築の宿命であります火災にも幾度も遭っています。最も近いものは昭和27年に罹災し、この時七代藩主毛利重就造替の社殿が焼失しております。現在御覧いただいています社殿は昭和33年に、楼門は昭和38年につくられたものです。
毛利重就(もうりしげたか)公像 (英雲公)
享保10年(1725)~寛政元年(1789)、長府藩8代藩主で後に長州藩8代藩主となる。
赤字財政の長州藩の藩政改革に取り組み、三田尻港を整備した上で回船の寄港地として発展させ、特産品の販売・回船業者への金貸し・倉庫業・塩田の開発などを行い大きな利益を上げ、藩財政を回復させた。天明2年(1782)家督を譲り、三田尻御茶屋に住んだ。
※以下、防府天満宮ウェブサイトより引用
10代藩主毛利斎熙(なりひろ)が五重塔の建立を思い立ち、文政5年(1822)着工しますが、天保年間また幕末多事な政情の変転が妨げとなり、五重塔は未建の幻の塔となりました。 この春風楼は明治6年に天満宮が塔の建築を断念し、着工当時に造作した塔の一層部分軒下の組み物をそのまま床下に取り込み楼閣様式に建立したものです。
防府天満宮 大専坊跡 ※現地案内板より抜粋