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Last Updated: 16 May 2010
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しました。
関ヶ原の戦いの後、長門・周防の2国に減封された毛利家前当主・毛利輝元は、東の守りとして、毛利元就の次男・吉川元春の三男で、吉川家を相続していた吉川広家(広家は武断派と言ってよかろう、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に通じ、毛利本家を参戦させないように画策した。結果として家康より広家に対して防長2州を与えられたが毛利本家安泰のため固辞した)に岩国を与えた。以後、岩国は、吉川家が治める岩国領6万石の城下町として発展していく。後述のように、関ヶ原敗戦の原因を毛利両川(小早川の裏切りと吉川の内応)のためと考えていた毛利本家から、幕府に対して支藩としての推挙がなかったため、岩国領と称された。吉川氏が諸侯に列し、大名となったのは慶応4年のことである。したがって岩国藩と呼べるのは、それ以後からのこととなる。旧市街である、錦見(にしみ)・岩国・横山といった現西岩国駅・川西駅の周辺が繁栄した。江戸年間、岩国藩と長州藩は幕末まで吉川家の家格をめぐって疎遠であった。このためか旧岩国市域の住民は山口県に帰属しているという意識は薄い。また、現在の錦川下流の沖積平野は、吉川藩時代における殖産興業政策により埋め立て開墾された部分がほとんどである。この質素倹約政策のため、徳川政権時代に始まった派手な祭りは無いと言って良い。関ヶ原の戦いにおける吉川広家の施策のためか、第一次長州戦争の際、萩藩と幕府側の仲裁に岩国藩主・吉川経幹(監物)が出向いた。また四境の役(第二次長州戦争)では小瀬川を挟んで芸州口の戦いの兵站地となった。
慶応2年(1866)四境戦争の際、芸州口で長州軍として戦い戦死した遊撃隊士の墓
「夢路にも」は明治維新の先達吉田松陰先生が幕府の召喚を受け、籠で護送されながら、岩国市小瀬川に差しかかり、防長二州と最後の別れをされるとき詠まれたものである。時は安政6年5月28日、先生30歳の時である。先生の籠は約1ヶ月後、江戸に着き、幕府の調べを受けられたが、国を思う先生の姿勢も幕府には通ぜず、同年10月27日、伝馬町の獄舎に於いて
「われ今国の為に死す死して君親に背かず 悠々たり天地の事、鑑賞明神に在り」
の辞世を朗唱され従容として死に就かれたのである。今や西に東に世情騒然たるものがあるとき、一には青少年訓育の糧となし、他には観光岩国の一資源となすべくこの碑を建てた。
山陽道は、大和朝廷成立の初期に開かれ、大化の改新(645)により、都(奈良)から大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路であった。また、古代には「かげとものみち(光の面)」とも呼ばれていた。この道は、安芸国高庭(広島県大野町高畠)の駅家から遠菅(大竹市小方)の駅家を過ぎ、小瀬川を渡って周防国小瀬(岩国市小瀬)に入り、山道を越えて石国(いわくに)駅家(岩国市関戸付近)に至る道であった。中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大坂から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で、西国大名の参勤交代等により、往来も盛んで、国内陸路の主要道として利用された。道幅は、慶弔2年(1607)に、2間(約3.9m)と定めている。小瀬川の渡り場跡は、ここより南東約50m付近にあり、茶屋は、西方約100m付近に設けられていた。
福原越後 文化12年(1815)~元治元年(1864)長州藩の永代家老。禁門の変後の第一次長州征伐が起こると、国司信濃・益田右衛門介と共に責任を取る形で、ここ龍護寺で切腹しました。
この道は、安芸国遠菅(大竹市小方)の駅家を過ぎ小瀬川を渡って周防国小瀬(岩国市小瀬)から山道を越えて石国駅家(岩国市関戸付近)から野口(玖珂郡玖珂町野口)に至る道であった。この付近には、駅家が置かれ20頭の駅馬を常備し、駅館の施設が整っていたと思われる。ここの関戸宿には、参勤交代のための本陣や脇本陣があり、一般旅客のための旅籠(はたご)や茶店の施設も設けられていた。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用いたしました。
錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋である。日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政史料には大橋と表記されることが多く、「錦帯」という美名は完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3m・幅員5.0mで、継手や仕口といった組木の技術によって造られている。杭州の西湖にある「錦帯橋」をモデルにして1673年に架橋された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。
天下統一を目指す織田信長は。天正8年(1580)6月、羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家に命じて城督とした。天正9年3月、経家が入城し城内を調査したところ、貯蔵された食料が3ヶ月分位しかなく、食料の補給を図ったが、城内に搬入しようとする輸送船は、すべて秀吉軍に捕獲された。時日が経過するに従って餓死する者が続出し、その惨状は言語に絶した。開城の条件として、城兵全員の救助を誓約し10月25日「天下を争う織田、毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う」という遺書をしたため、城内広間において35歳の命を断った。その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。その英魂を弔うため、昭和14年弔魂碑が建立され、礎石に鳥取城の石12個が使用されている。なおこの場所は、江戸時代にその吉川氏の屋敷のあった所である。
「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を巌流ともよぶ人間は、かくいう私である・・・」吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の一節である。当地では、古くから佐々木小次郎がここ錦帯橋畔において、柳の枝が燕を打つのを見て、燕返しの剣法「巌流」を自得したと言伝えられている。
(注)佐々木小次郎の出生については諸説あります。
籌勝院(ちゅうしょういん)と遊撃隊士の墓 岩国市小瀬264