城下町長府には、西暦193年、仲哀天皇、神功皇后により豊浦の宮が築かれた由来から、忌宮神社が創建され、数々の神事が継承されている。大化2年(646)には、長門の国府として長府と呼ばれるようになり、その後長門鋳銭司や国分寺が設置され繁栄を続けてきたが中世には長門守護所、長門探題も設けられ、政治的、軍事的拠点として重要な役割を果たしてきた。慶長5年(1600)、関ヶ原の役後、毛利秀元が長府五万石の城主として入府以来、武家屋敷の町として平和な藩政時代を過してきたが、幕末に至り俄然、倒幕拠点の地として目覚め脚光を浴びてくる。文久、元治の馬関攘夷戦、七卿の来府、蛤御門の変、長州征伐と長州藩は激動と苦難の道を辿ることになるが、元治元年(1864)12月15日、功山寺における高杉晋作、回天の義挙により歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎えることになる。思うに長府は、古来から西日本における枢要の地として、広く維新の偉業を繰返してきたが、特に高杉晋作の回天義挙により、明治維新発祥の地として世に高く評価され伝承されてきた。また、付言するならば、世界的名声を博した狩野芳崖、乃木大将の出身地でもある。
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Last Updated: 3 September 2006
乃木神社内にある、復元された旧乃木邸
乃木神社は全国に建てられましたが、ここ下関市長府以外では、函館市・室蘭市・栃木県那須郡・東京都港区・滋賀県蒲生郡・京都市伏見区・香川県善通寺市にあります。現在保存されている乃木旧邸は大正3年(1914)、そのゆかりの地に忠実に復元されたもので、極めて質素な生活をしていたことを偲ばせています。乃木は安政五年(1858)、10歳のとき父とともにこの地に帰り、16歳で萩に従学するまで、長府城下で過ごしました。希典が11歳の時、親戚にあたる吉田松陰が、幕府に捕らわれ処刑されています。萩に従学とは、松陰の叔父である玉木文之進に弟子入りしたことをさします。玉木文之進は『松下村塾』の創設者であり、松陰に徹底的な教育を叩き込んだ(あまりにも厳しい教育であったため松陰の母は松陰に「もうお死んでおしまい」と言ったくらい)人です。
玉木文之進(1810~1876)について
玉木文之進には子がいませんでした。このため、玉木家の宗家とされる長府の乃木家から正誼(まさよし)を養子にとります。正誼というのは乃木希典の弟です。正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。希典もまた少年のころ、玉木家で起居して文之進の教育をうけました。松陰と希典とは、玉木文之進を師とする同門ということができます。
玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹しています。この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。この時のことをお芳は以下のように追懐しています。
『世に棲む日日』より引用。
この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。ついては介錯をたのむ、と申されました。私もかねて叔父の気性を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。私はちょうど四十でありました。わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。介錯をしたあとは、夢のようでありました。
前原一誠 天保5年3月20日 (1834年4月28日) ~ 明治9年(1876年)12月3日
1857年(安政4年)、久坂玄瑞や高杉晋作らも居た吉田松陰の松下村塾に入門します。松陰は前原の誠実な面を、久坂玄瑞や高杉晋作よりも優れていると評しました。前原は松陰処刑後の安政6年(1859)長崎に遊学しています。
その後、尊王攘夷運動【元治元年(1864)8月下関で四カ国艦隊との戦、12月高杉晋作と功山寺義挙・馬関萩本藩会所を占領、1865年(慶応元年)太田絵堂の戦いに勝利】、幕長戦争【慶応2年(1866)小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽力】、戊辰戦争【1868年(慶応4年)越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽力】を経て、その功績により明治政府では参議に任じられ、大村益次郎暗殺後は、兵部大輔を兼ねるまでに栄進します。しかし、前原は武士を廃止して国民皆兵を目指す大村の方針に反対し、戦いは武士が行うものだと主張、大村路線の後継者である山県有朋に追われる形で下野し、ついに明治9年(1876)10月萩で反乱を起こしました。この時期相次ぐ反乱(熊本神風連の乱、秋月の乱など)はいずれも短期間に鎮圧されており、前原は戦況不利を見るや、天皇への諌奏のため、海路上京を企てますが、島根県宇龍港(現在の大社町)で捕縛されました。前原らは萩に特設された司法省萩臨時裁判所の裁判にかけられ、12月3日に斬首されました。久坂玄瑞や高杉晋作に続き、松陰門下の逸材がまた明治早々に失われることになります。
大正元年(1912)9月13日、希典は赤坂の自邸で天皇の霊柩が皇居を出る号砲を合図に、夫人(静子)と共に殉死しました。
うつし世を 神さりましし
大君の みあとしたひて 我はゆくなり
希典
出でまして 還ります日の
なしときく 今日の御幸に 遭うぞかなしき
静子
わが君は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで
のちに『君が代』では「わが君は」が「君が代は」となる。
維新発祥の地記念碑より引用