『函館』幕末番外編です。

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Last Updated: 13 August 2006

猿田彦塚の碑

昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていました。猿田彦塚は、文化14年(1817)、一本木付近に建立され、「天保九年御巡見要用録」という記録書には、箱館村と亀田村との境界標であったと記されています。
この塚は以前、旧若松小学校西側の鶴若稲荷神社の境内にありましたが、鶴若稲荷は昭和20年に疎開のため移転し、取り壊された跡には家屋が建ち、塚は無くなり見つかりませんでした。しばらくして、昭和31年に付近の民家の庭から字を刻んだ猿田彦塚の破片の一部が発見されました。ここにある二つの碑は、発見した石の破片を使用して昭和33年に猿田彦塚を復元したものです。塚の表面には「猿田彦大神、鈿女命、右箱左亀」また、側面には建立年と、向って左の小碑に一部復元してある文字が刻まれていました。猿田彦と天鈿女命(あめのうずめのみこと)とは夫婦であり、猿田彦は道案内の神として知られています。

猿田彦塚の碑

猿田彦塚の碑

高田屋嘉兵衛銅像

嘉兵衛は明和6年(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のときに函館に渡りました。文政元年(1818)に故郷に帰るまで、函館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残しました。さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名です。
この像は、文化10年(1813)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、函館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿です。
右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀しています。
高田屋嘉兵衛を主人公とした司馬遼太郎氏の作品に、『菜の花の沖』があります。

高田屋嘉兵衛銅像

高田屋嘉兵衛銅像

高田屋嘉兵衛屋敷跡

箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではありません。高田屋の全盛は、寛政13年(1801)に嘉兵衛のあとをついだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃です。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていました。

高田屋嘉兵衛屋敷跡

高田屋嘉兵衛屋敷跡

石川啄木一族の墓

函館には石川啄木の墓があります。啄木が函館に住んでいたのは数ヶ月だそうですが、函館をこよなく愛し、「死ぬなら函館で」と言うほどだったとか。
しかし思いはかなわず、明治45年4月に27歳の若さで東京で病死しています。

石川啄木一族の墓

石川啄木一族の墓