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Last Updated: 18 February 2007
唐津から平戸島をめざした
肥前のこの西北角の浦々島々はことごとく古代の末羅(まつら)国で、平戸島はこの雄大な海国における重要な一部をなしている。やはり「羅」がつく。たとえば『和名抄』では、平戸は庇羅と表記されている
奈良・平安期での遣唐使船の航路はいくすじかあるが、そのうち南島路とよばれている航路の場合、博多湾を出帆したあと、大海へ出る重要な足がかりとして平戸島に寄港していた。平戸人は、おそらく当時から海外という感覚が、内陸地での隣国という感じよりももっと身近なものであったにちがいない。
以上、司馬遼太郎氏の『11.肥前の諸街道』より引用いたしました。
『11.肥前の諸街道』、『40.台湾紀行』など、司馬遼太郎氏の著書に記載のある史跡も散策してみました。
田の浦 ※現地案内板より
弘法大師(空海)ゆかりの地として知られる田の浦は、804年7月6日にこの地を船出したとされ、弘法大師(空海)は風まちのためしばらく滞在し、遣唐使として唐からの帰朝の折には、西高野山最教寺において護摩供養がなされた。また、弘法大師(空海)が手にした枝でその所在を教えられたという伝説の田の浦温泉などもある。
渡唐大師像 ※現地案内板より
弘法大師(空海)は、804年7月6日にこの地を船出したとされている。この像の高さは、7mで台座を含めると16mあり、石像としては日本一の弘法大師(空海)像を誇る。
鄭成功児誕石
鄭成功の母親はこの海岸で産気づき、この石にもたれて鄭成功を産み落としたと伝えられています。
17世紀の中国、海賊に手を焼いた明は、同じ海賊である鄭芝龍というものに官位を与え都督にし、毒で毒を制そうとしました。鄭芝龍は勢力をのばし、王侯を凌ぐ程の富を得ます。鄭芝龍は日本を得意先とし、平戸島の大名松浦氏と結んで、書籍・陶磁器などを売り、大量の金銀を得ました。また平戸城下に屋敷も構えました。そこで日本人の娘との間に福松(のちの鄭成功)をもうけました。
以下、司馬遼太郎氏の『40.台湾紀行』より引用しました。
私は、福松が育った平戸の川内湾に行ったことがある。いまはさびれきっているが、十七世紀の初頭までは平戸港の副港として栄えた。鎖国までのあいだ、ここにオランダ船や明船が入り、オランダ商館の倉庫も設けられていた。
鄭成功廟
以下、司馬遼太郎氏の台湾紀行より引用しました。
浦の南東に小さな丘があり、土地の人は丸山とよんでいた。ここに、遊郭があった。鎖国後、幕府が海外貿易を長崎一港に限定したとき、平戸の丸山遊郭が長崎に移される。平戸の丸山のほうは、もとの小丘陵にもどった。登ると、一祠があり、なんと鄭成功がまつられていた。いま文献でしらべてみると、台南の鄭成功廟から分祀されたものだそうである。
鄭成功:近松門左衛門の『国性爺合戦』のモデルとなった人物とされる。
三浦按針 ウイリアム・アダムス
三浦按針:ウイリアム・アダムス(1564〜1620年)は日本にやってきた最初のイギリス人とされています。1600(慶長5)年、豊後に漂着後、徳川家康に重用され、西洋の知識を家康に教えたり、オランダと日本の交易に貢献しました。1613(慶長十八)年、イギリスの船が平戸に入り帰国のチャンスもありましたが、結局平戸に残り1620(元和六)年に病没しています。
肥前の諸街道より引用