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Last Updated: 27 April 2008
平野国臣(ひらのくにおみ)文政11年(1828)~元治元年(1864)
京都の尊王攘夷派が潰滅したことを知った国臣は、天誅組に呼応するために但馬の生野銀山で挙兵しました。
以下、海音寺潮五郎氏の『幕末動乱の男たち』より一部引用しております。
文久3年(1863)、大和行幸・攘夷親征のおふれだしがあった日、土佐人吉村寅太郎らは中山忠光を元帥におし立てて大和にくだった。討幕戦争になることを前提に、大和地方の幕府勢力を掃討し、強力な先鋒隊をこしらえておこうとの意図であった。いわゆる天誅組である。
長州藩やその派の公卿たちは天誅組を送り出した後のなって、闇雲に過激な活動をされることが不安になり、三条実美らが国臣に大和の天誅組を取り鎮めるよう命じる。急ぎ大和に下った国臣は、中山忠光らに追いつくことができたが、既にその前日、五条代官所を襲撃し代官鈴木源内をはじめ5人の役人を血祭りにあげ、更なる戦闘準備中であった。国臣は天誅組に対し沈静化するように説得するが、その最中に八月十八日政変がおきたという知らせがはいる。長州藩とその派の公家たちは一夜にして権力の座からおろされてしまったのである。
京都の尊王攘夷派が潰滅したことを知った国臣は、天誅組に呼応するために、但馬の生野銀山で挙兵したが、元帥の沢宣嘉(さわのぶよし)が近習5人とともに、軍用金をもって逃亡したため失敗し、豊岡藩兵に捕らえられ、京に送られて六角獄舎につながれた。
その翌年に蛤御門の変がおこり、京都中が混乱する中、国臣は他の囚人たちとともに六角獄舎の中で新選組により惨殺された。(牢の中にいる囚人たちを槍で突き殺したという説もあり、国臣は胸をひらいて突かせ、二槍で絶息したともいわれている)
国臣は、肉落ち、骨枯れ、髪もひげも雪のように白く、眼光だけがけいけいとかがやく相貌になっていたという。
憂国十年 東に走り西に馳す 成敗 天にあり 魂魄 地に帰す
見よや人あらしの庭のもみぢ葉はいづれ一葉も散らずやはある
わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山
宝暦4年(1754年)山脇東洋はここ六角獄舎(六角通大宮西入ル)にて、日本ではじめての人体解剖を行いました。その後、山脇東洋はその記録を『蔵志』として出版しています。江戸の杉田玄白が外国の解剖書を翻訳し、『解体新書』を著す随分前のことです。
『解体新書』に関して吉村昭氏の 『冬の鷹 (新潮文庫)』 という小説があります。この小説は解体新書の主幹翻訳者である前野良沢(まえの りょうたく)と杉田玄白(すぎた げんぱく)の全く対照的な生き様を描いた作品です。
明治三年(1870年)三月、福岡藩主黒田長薄により創建され、平野次郎国臣を始め、福岡藩出身の勤皇志士を祭神とし、同年七月久留米藩出身の真木和泉守他十三柱を合祀し今日に至る。
現地案内板より