生麦事件は薩英戦争へと発展。これにより薩摩藩は攘夷の無謀に気づき英国に接近、最新鋭の武器も手に入れるなどその後の幕末史に大きな影響を与えることとなります。
朝廷は幕府に攘夷断行を求め、江戸に赴く大原勅使の護衛として薩摩の島津久光が同行し、その帰途、文久二年八月二十一日(西暦1862年9月14日)午後二時、行列を横切ろうとしたイギリス人一行を生麦で殺傷しました。この事件を土地に因んで生麦事件といい、薩英戦争の契機となりました。
明治十六年、鶴見の人、黒川荘三が中村敬宇の撰文を得てイギリス商人リチャードソン落命の地に、遭難の碑を私費で建立したものです。
以下、吉村昭氏の 『生麦事件』より引用しました。
道の左側は民家と民家の間のせまい耕地で生垣があり、それ以上は寄れない。リチャードソンは手綱を強く引き、そのため馬が道の中央に少し出た。リチャードソンは手綱を強くひいて馬をもとの位置にもどした。小姓組の者たちの顔には憤りの色が濃く、口々に「引返せ」「脇に寄れ」と叫んだ。
リチャードソンの馬につづいてマーガレットの馬が動揺をみせ、小姓組の方向に鼻先を向け、前脚を荒々しく踏み出した。前方から久光の乗る乗物が、駕篭廻りの藩士にかためられて接近してきた。それらの藩士の中から長身の男が、顔面を蒼白にして走り出てきた。供頭の奈良原喜左衛門で、乗物は停止していた。奈良原は、怒りにみちた眼をマーシャルたちに向け、手を激しくふり、「引返せ」と、怒声を浴びせかけた。
その声に、狼狽したリチャードソンが青ざめた顔をマーシャルたちに向けた。同じように血の気を失った顔のクラークが、「引返ソウ」と叫び、マーシャルが、「落着ケ、落着ケ」と、声をかけた。
その言葉に、リチャードソンが馬の鼻先を返し、マーガレットもそれにならった。が、切迫した気配に落着きを失っていたリチャードソンの馬が、小姓組の列の中に踏み込んだ。列が乱れ、馬が荒々しく足をはねあげた。
奈良原の口から叫び声がふき出し、刀の柄をつかんでリチャードソンの馬に走り寄った。かれは、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。それは、藩主の前で披露したこともある野太刀自顕流の「抜」と称する奈良原の得意とした技であった。
血が飛び散り、激しい悲鳴があがった。
横浜市地域史跡 生麦事件の碑 ※現地案内板より