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Last Updated: 13 August 2006
桂小五郎の京都における所縁の地、河原町通・木屋町通・高瀬川周辺をご紹介します。
桂小五郎が池田屋事件などで死なずにすんだのは幾松(いくまつ)という女性の存在が大きく関与しています。幾松は笛と舞に秀で美しく頭もよく当時評判の名妓(めいぎ)だったようです
「幾松」
旧長州藩邸跡の京都ホテルと木屋町通りをはさんで向かい側には、桂小五郎と幾松が住んでいたところが残されています。この家は、東に鴨川、西に高瀬川に面していて、いつ幕府方や新選組が襲ってきても逃れられる造りになっていると言われています。
元治元年(1864)、桂は長州藩の京都留守居役となります。前年・文久3年(1863)の八月一八日の政変で長州勢力は地に落ち、桂は新選組にもつけ狙われていました。池田屋事件では運よく助かっていますが、その当時幾松の家に滞在中、新選組隊士がそこへ踏み込み、幾松が気丈にも近藤勇と渡り合い危機を脱したという話が伝えられています。禁門の変後には、桂は乞食になりすまし二条大橋の下に潜伏しますが、幾松は握り飯が入った包みを二条大橋の上から落として桂へ届けていたそうです。慶応元年、長州藩は但馬の小京都出石(いずし)に潜伏中の桂に、長州へ戻るよう指示した手紙を幾松に託しました。幾松の迎えで桂は出石を出立し、京・大坂を経て長州に到着しました。桂小五郎は木戸貫治、準一、孝允と改名、幾松も松子と改め、長州藩士の養女として入籍し木戸と正式な夫婦となりました。
京都霊山護国神社
桂小五郎 京都縁の地