熊本藩士であり尊皇攘夷派の活動家であった宮部鼎蔵(みやべていぞう)文政3年(1820)~ 元治元年(1864)
宮部鼎蔵先生は、文政3年(1820)4月御船町上野2905番地で医師春吾と母ヤソの長男として出生。幼少の頃から文武を好み熊本の叔父宮部丈左衛門のもとで成長し、31歳で叔父の家を継ぎ肥後藩の軍学師範となる。徳川幕府の衰退と外国船の侵入で国防が叫ばれる時、宮部先生は藩の同志を始め長州の吉田松陰と共に全国の志士と謀り幕府を倒して新生日本の国つくりを画策された。これを阻止せんとする幕府の弾圧が激しくなった元治元年(1864)6月5日夜、宮部先生は京都の池田屋に同志を集めて協議中、乱入した新選組と戦って自害された。年45歳。新生日本に改まる3年前であった。弟春蔵先生も同年7月天王山で幕府軍と戦って自刃された。年26歳。兄弟の尊い死から141年、郷里の上野では宮部先生の彫像を建立して顕彰することに決し上野校区民の熱誠なる支援を受けて見事に完成した。春風秋雨時代は大きく変わっても、国事に斃れた兄弟の功績に対する郷民の追慕の念は変わらず、世にうるわしきことと讃えるべきである。
平成17年(2005)6月 宮部先生兄弟顕彰会

鼎春園(ていしゅんえん)

正四位宮部鼎蔵先生之像

宮部鼎蔵先生殉難百年記念碑

春蔵歌碑 故郷の 花を見すてて飛ぶ田鶴は・・
鼎春園について ※現地案内板より
この鼎春園は、徳川幕府の末期、諸外国から通商を求めて進攻されてきたとき、幕府の暴挙による政治を改革するため、倒幕運動の先き駆けとなって活躍した勤王の志士達の指導者だった宮部鼎蔵先生の偉業をたたえるため、先生の弟春蔵先生二人の「鼎」と「春」をとって名付けた顕彰の公園です。顕彰碑に並ぶ碑は、鼎蔵先生が意を決して京都に出立される時子孫のため遺された「孝忠」の碑と向かって左の歌碑は鼎蔵先生の
「いざ子供 馬に鞍おけ九重の みはしの桜 散らぬそのまに」
右の歌碑は春蔵先生の
「故郷の 花を見すてて飛ぶ田鶴は 雲井の空に 羽をやうつらむ」
となっています。
顕彰碑は大正2年(1913)に県内の各界から協力で建てられ、碑題は細川氏15代細川護成公の書で、撰文者は天草大矢野町出身の大学者竹添進一郎(井々)氏、書は大家といわれた末廣櫓山氏です。
宮部鼎蔵先生彫像碑 ※現地案内板より