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Last Updated: 13 August 2006

以下野村望東尼に関する記載内容は、福岡市で活躍されているライターの晴野まゆみさんの紹介文です。

西鉄平尾駅を降り、西に伸びた商店街の通りを抜ける。買い物姿の主婦らが行き交う商店街には、平凡で穏やかな生活の情感が漂う。やがて北へそれ、山荘通りと呼ばれる道に出る。この名こそ、幕末の世に高杉晋作ら勤王の志士を匿った野村望東尼(ぼうとうに)の平尾山荘の存在を示す。

野村望東尼、俗名野村もと。佐幕派の福岡藩にあって、藩士の娘であり、妻だった彼女がなぜ、危険を顧みずに勤王志士を匿ったのだろうか。後妻に入った野村家で先妻の息子三人を育て上げ、夫の隠居後は平尾に建てた小さな山荘で、夫婦二人だけの風流な生活をしていたはずなのに。つまり彼女は現代風に言えば、平凡な一主婦に過ぎなかったのである。

しかし、夫が死去。彼女は得度剃髪し、招月(しょうげつ)望東と改めた。54歳の秋である。そしてここから彼女は時代に、社会に目覚めていった。初めて訪れた大阪、京都。そこで「寺田屋の変」など、動乱の時代を目の当たりにする。世の中を変えるには古い幕藩体制ではいけない。彼女は勤王思想に傾いていった。獄中にいた福岡藩の志士平野国臣に激励の歌を贈ったことが縁で、平尾の山荘には勤王の志士が出入りするようになる。

   武士(もののふ)のやまと心を より合はせ ただひとすじの大綱とせよ

山荘を隠れ家として提供し、自分は現薬院古小烏の野村家本宅から通った。彼女は高杉晋作らをかいがいしく世話をした。ただ純真なまでに世話好きだったのかもしれない。あるいは思想熱い若者たちが実の息子のように思えたのかもしれない。実の子四人は全て夭折し、情愛深く育てた義理の息子も二人は不幸な死で人生を閉じている。

やがて高杉晋作が長州に戻った後、福岡藩が勤王派処刑に乗り出し、彼女も玄海灘の姫島に流刑となった。辛い獄舎生活だったが、島の人々が差し入れした食料をねずみにも「さあ、お食べ」と分けてやっていた。純粋で微笑ましい彼女の一面が見える。

一年後、高杉は勤王の福岡藩士を動かし、孤島の獄舎から彼女を無事救出。望東尼は高杉のいる下関に逃れたが、すでに高杉は肺病で死の床についていた。彼の死を看取り、そして彼女もまた半年後に生涯を終えた。享年62歳。開国前年の慶応3年だった。

   ひとすじの道を守らば たおやめも ますらおのこに劣りやはする

「一念を貫けば、女性も男性に劣ることはない」。女性が社会や政治に口出しできない時代に、志士の精神的支えになることで彼女なりに思想を貫いたのだろう。男女平等への思いも密かに込めながら…。こうして見ると、野村望東尼は女傑でも、激情家でもない。むしろ、母性愛に満ちた女性だった気がする。

後年、彼女の名誉は回復され、平尾山荘も復元された。山荘の裏には当時の泉が枯れることなく湧き出で、松や椎、桜そして梅などが山荘を静かに囲む。平尾駅から徒歩でわずか10分の場所に、平凡な主婦にして「志士たちの母なる人」の在りし日が静かに残る。

「西鉄コンパス03年7月号より 筆者:晴野まゆみさんより転載のご承諾を得ております」