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Last Updated: 23 September 2011
中岡慎太郎 天保9年(1838)〜慶応3年(1867)
中岡慎太郎は山深いこの地(土佐国安芸郡北川郷柏木村【現在の高知県安芸郡北川村柏木】)に大庄屋の長男として生まれました。
中岡慎太郎 生家 ※現地案内板より
慎太郎は、天保九年、この屋敷に生まれました。現在の家は慎太郎没後百年祭にあたって、昭和42年11月17日(慎太郎の命日)に復元公開されたものです。
茅葺き屋根の肘屋建築。庄屋には必ず勘定の間があり、玄関の式台を上り、次の間、客間は公の間。その他の奥の間を私生活の間としたと言われ、裏にあるナツメの木の切り株は慎太郎がよく登って遊んだ木と伝えられています。
昭和43年県指定史跡に認定。
中岡慎太郎之碑
中岡慎太郎向学の道 ※現地案内板より
安政元年(一八五四年)、中岡慎太郎17歳。
ペリーが初めて浦賀に来航した翌年であるこの年、高知城下だけであった藩校が郡で初めて設置されると、慎太郎はただちに田野学館に入学。この田野学館に近隣の有志が多く通っており、清岡道之助、その弟・半四郎らをはじめ、多くの有志と交わりを持つことができた。
中岡慎太郎が島村策吾の塾や田野学館へ通学するときに通った道は現在「中岡慎太郎・向学の道」と呼ばれている。
中岡慎太郎之像【現地案内板より】
中岡慎太郎は、天保九年(一八三八年)四月十三日当地柏木に大庄屋の長男として生まれる。
徳川の幕政が弱体化し、武家社会の矛盾が怒りとなって民衆の心を動揺させていた幕末の時代である。庄屋見習い時代の慎太郎は、農民の貧苦を己心の痛みとし、藩権力と対峙した。慎太郎がめざした維新回天も、つきつめると不平等な武家社会への挑戦であったといえる。その魂があったからこそ誰もが着眼しえなかった薩長連合を龍馬と共に成し遂げ討幕の為の公家どうしの協力体制を築くなど公憤に燃え国事にその生涯を捧げつくした。
この像は、幕莽の志士として維新の大道を歩んだ慎太郎の真の姿の再来を願い、生誕百六十年を機に、全国の方々からの募金により建立されたものである。また、この石碑の中には建立募金者名の記された建立記念誌、平成十年度地元、北川小・中学校生徒の文集がタイムカプセルとして埋蔵されており、生誕二百年(二〇三八年)の年に取りだされる。
平成十一年四月十三日 中岡慎太郎銅像建立実行委員会
高知県安芸郡北川村