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Last Updated: 17 May 2009
三百年の歴史が息づく後楽園。拾い芝生地や池、築山、茶室が遠路や水路で結ばれ、歩きながら移り変わる景色を眺めることができるよう工夫された回遊式庭園です。
岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみました。その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在につたえられてきました。また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる、地方では稀な大名庭園となっています。後楽園は、かつて藩主の静養の場、賓客接待の場として使われましたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。明治17年に岡山県に譲渡され、一般公開されました。昭和9年の水害、昭和20年の戦災では大きな被害を被りましたが、江戸時代の絵図に基づいて復旧をおこないました。昭和27年には文化財保護法による「特別名勝」に指定され、後世に伝える歴史的文化遺産として維持管理にあたっています。
藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われました。沢の池、唯心山、借景の操山と、園内外の景観が一望できる、後楽園の中心的建物です。
園内に点在する亭舎の中で、池田綱政が最も好んで利用していたものです。廉池軒からの眺望は、水の景色が優れています。
亭舎の中央に水路を通し、中に美しい色の意思を配した、全国でも珍しい建物となっています。かつては、藩主の庭廻りのときに休憩所として使われ、簡素なたたずまいを伝えています。
備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。秀家の築いた天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第二次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の市街地空襲により焼失した。
表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ上る石段の入口に設けた渡櫓門、天守閣のある本段全体の入口を固めた大形の城門であるが、平素の出入は北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから、「不明門」と呼ばれた。明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。
現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、外観は全く旧来の通り復元されている。
後楽園 ※後楽園のパンフレットより