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Last Updated: 20 February 2010
高杉晋作誕生の地の近くにある金毘羅社、円政寺(真言宗御室派)を紹介します。幕末の風雲児、高杉晋作は幼年期、ここで遊び勉学に励みました。
金毘羅社円政寺発行リーフレットより
円政寺は大内氏の祈願寺で、今の山口市円政寺町に創建、大内氏滅亡後、毛利公が萩へ築城と同時に移転、神仏分離令にもかかわらず今も此形態が見られ国指定史跡萩城下町の地域内にあってその景観の一つである。
※現地案内板より
金毘羅社の建立は不詳であるが、入口に金毘羅社に寄進された鳥居が建っており、それに延享2年(1745)と彫られている点や天保年間(1830~43)み編纂された「八江萩名所図画」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともそのころには建立されていたと思われる。
現地案内板より
当時、この寺の恵運住職と伊藤博文公の母親(林琴子)が従兄妹に当り伊藤博文(幼名:林利輔)はこの寺に一年半預けられた。
円政寺境内にある金毘羅社の拝殿の前にかけられている大きな赤い天狗の面
高杉晋作がまだ幼かった頃、家人に何度もここに連れて来られこの面を見せられて物恐れをしないように躾けられたという逸話があります。
現地案内板より
この神馬は文政三年(1820年)萩市浜崎町金子音松氏が金比羅社に奉納したもので山口市大内名工、安永貞右衛門の作である。高杉晋作 伊藤博文は子供のころこの境内が遊び場所でありましたので、いつもここに来ては馬の鼻をなぜていたという話です。
現地案内板より
90センチ×90(鏡)125×125センチ 奉献長州萩新堀金比羅大権現御宝前 近藤政善作 文政五年(1822年)壬年の歳
鏡背に亀鈕を中心に据え七宝繋きの地紋を施し奉献の銘文を鋳出す。銘文により文政五年(1822年)に長州萩の金比羅さんに奉献されたことなどが確認される。直径は三尺に及ぶ巨大な鏡で熱烈な金比羅信仰の縁を伝える。縁に世話人 瀬川甚兵衛門、三井佐吉山田勝之助、大田弥兵衛、杉三右衛門(彫銘)
現地案内板より
二孝子の美談
文化12年(1815年)12月11日、城下の東効香川津に住んでいた坪井甚右衛門組下の御六尺(藩主の駕籠舁き)長七の長男権蔵と三男利吉の二人が母の産後の病気平癒を祈願して、七日七夜断食して金比羅社に詣り、満願の夜丸裸で雪の中を家に帰る途中、松本川東岸の雁島付近で凍死した事件である。このことはその当時から「香川津の二孝子の美談」として語り伝えられた有名な話で、藩公の命により頌徳碑も建てられている。(現在は死亡した場所に移建してある)
こま犬の台座の彫刻 ※現地案内板より
このこま犬の台座の彫刻は、中国のことわざ平成9年3月ドラマ水戸黄門で上映された瓶に落ちた子供を助ける為大切な瓶を割る話。
二十歳のとき 江戸から信州を回って旅をし、佐久間象山に会い「外国を見なければならない」と教えられ、その二年後の文久2年(1862年)、藩命を受け五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航しています。アヘン戦争に負けた清国の姿を見たことが、後の晋作の人生に大きな影響を与えることになります。
円政寺