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Last Updated: 26 May 2007
天然痘は、当時最も恐れられている病の一つであった。その予防法である種痘を、日本で本格的に広めた一人が洪庵である。嘉永二年(1849)、洪庵四十歳の時、彼は迷信のはびこる世の中の誤解や悪評に屈することなく、種痘の普及に努めた。いわば、日本の近代的な公衆衛生運動のはしりともいえる業績である。
以上、『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。
種痘とは天然痘(痘瘡:とうそう)の予防接種のことで、天然痘予防もしくは罹っても軽い症状ですむようにするものです。牛痘種痘法による種痘を発明したのはイギリスのEdward Jenner(エドワード・ジェンナー:1749年 ~ 1823年)でした。当時、天然痘は古い昔から人類を苦しめてきた悪魔の伝染病として非常に恐れられていました。1796年、ジェンナーは『牛痘にかかった搾乳婦は天然痘にかからない』という噂を聞き、ある実験を試みます。牛痘とは牛の天然痘で、このウイルスは人間に感染しても軽い発疹をおこすのみでそれ以上の症状はおこさないことが知られていました。ジェンナーはまず牛痘にかかった搾乳婦の発疹から膿汁を採取し、それを地元の少年に接種、それから一定期間をおいて天然痘患者から採取した膿汁を接種しましたが、少年は天然痘には罹りませんでした。この実験結果は1798年に発表され、種痘は天然痘予防のための画期的な方法として世界中に普及することになります。日本で初めて種痘を成功させたのは、洪庵が郷里の足守除痘館で種痘を行う前年の嘉永2年(1849年)、長崎に住み牛痘法をシーボルトに直接教わった佐賀藩医の楢林宗建でした。宗建は牛痘種痘を我が子に接種し成功させています。佐賀で日本初の成功を収めた牛痘種痘はこの後全国に拡まりました。
安政5年(1858年)神田お玉ヶ池に『お玉ヶ池種痘所』が開設され、江戸において初めて組織化された種痘事業を行いました。 文久元年(1861年)、種痘所は西洋医学所と改称され、教授、解剖、種痘の三科が置かれています。 その後時を経て東京大学医学部とります、ここお玉ヶ池種痘所跡は東大医学部の発祥の地ということになります。
お玉ヶ池
徳川家康の江戸入府時には、この辺には上野「不忍池」を凌ぐ大きな池がありました。しかし江戸時代を通して埋め立てられ、幕末の頃には小さな池となってしまいました。茶屋の娘「お玉」の身投げ伝説から、池の名前が来ています。現在「お玉稲荷」が建立されています。
※「お玉伝説」
大蛇の化身の若侍が愛本橋たもとの茶屋の娘に恋し、酒を持ち込み嫁にした。娘は身ごもり実家に帰って子を産むが娘の姿は大蛇となり両親はびっくり。娘は泣く泣く事情を話し、両親が年老いても困らないように、どれだけたっても腐らない「ちまき」の作り方を教えて姿を消したという伝説です。
種痘はその後世界規模で改良が重ねられ、画期的な予防法となり、1980年5月に世界保健機関(WHO:World Health Organization )は天然痘の根絶宣言を行うにいたりました。日本では1976年に定期の予防接種ではなくなり、ついに人類は悪魔の伝染病にうち勝ったのです。しかしながら1976年以前に種痘を受けている人でも、天然痘への免疫力はかなり低下しているものと思われ、テロリストにより生物兵器として利用された場合、被害は甚大であろうと懸念されています。
お玉ヶ池種痘所