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Last Updated: 13 August 2006
勝海舟寓居の地、出島、グラバー邸を紹介します。
幕末の幕臣、山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。
若い頃は剣術修行に励み、男谷精一郎の高弟である島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。父小吉の代より小普請組という無役であったが、嘉永6年(1853)の黒船来航が機会となり、老中首座の阿部正弘や海防掛の大久保忠寛に認められ、念願の役入りを果たし大きな人生の転機を掴む。その後、長崎の海軍伝習所に入り足掛け5年間を長崎で過ごす。万延元年(1860)には咸臨丸で太平洋を横断し渡米、帰国後は神戸海軍操練所も設立し坂本龍馬らにも大きな影響を与えた。明治元年(1868)の江戸城無血開城の立役者となった。
勝海舟に関する歴史小説は、子母沢 寛氏の『勝海舟』がお薦めです。
勝海舟は安政2年(1855)海軍伝習所伝習生頭取として長崎に来、寄宿したのがこの本蓮寺内です。ここで海舟は世界情勢や西洋の海軍学などを学びました。またこの本蓮寺には松本良順も寄宿しています。
江戸幕府の鎖国政策の一環として築造された扇型の人工島。当初はポルトガル人が居住しましたが、幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外へ追放したため、平戸島からオランダ東インド会社の商館が移され、オランダ人が居住することになりました。オランダ人は例外を除いてこの狭い出島から出ることを許されませんでした。ドイツ人のシーボルトは文政6年(1823)にオランダ商館医としてここ出島に赴任しましたが、例外的に出島から出ることが許されました。
荷揚場は出島築造当初にはなく、後年3回築足しされました。この石垣は最初に荷揚げ場が築足しされた時のものです。
文久3年建築。幕末日本の近代化に尽力した英商トーマス・グラバー氏の旧邸。現存する木造洋館ではわが国最古のものです。この応接室で高杉晋作、伊藤博文などがグラバーと面談しました。
オペラ『蝶々夫人』のヒロインを何度も演じ、この悲恋物語を世界的に有名にしたオペラ歌手、三浦環の記念像です。(港の見える丘で帰らぬ人を待っている蝶々夫人)
イギリス人貿易商として主に薩摩、長州相手に武器取引を行いました。日本には50余年在住し東京で慢性腎臓炎となり、 70歳で死去。日本人女性を妻としており、その名を『ツル』と言いましたが、このツルさんは、アメリカ海軍士官ピンカートンと日本人女性蝶々さんの悲劇を描いた世界的なオペラ『Mme.Butterfly : マダム・バタフライ』の蝶々夫人のモデルだという説があります。
蝶々夫人が夫に裏切られて自刃するのに対し、ツルは夫グラバーに見守られ、明治32年(1899)にがんで亡くなるまで51年の人生を全うしました。
トマス・B・グラバーとツルさんの息子。グラバー⇒クラバ⇒倉場。ホ-ム・リンガ-商会、 長崎漁業汽船株式会社の重役を歴任。 昭和20年(1945)8月26日長崎に原爆が投下されてから、18日目にグラバー邸近くで自殺しています。
勝海舟(麟太郎) 文政6年(1823)~明治32年(1899)