私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む。
(中略)
馬関海峡(ここは下関海峡というより馬関海峡とよぶほうが、潮の色までちがってくる)は、潮が激しくうごき、潮にさからってゆく外国の大船までが、スクリューを掻き、機関をあえがせて、人間のいとなみの可憐さを自然風景としてみせてくれる。
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』より引用しました。
(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 10 June 2007
私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む。
(中略)
馬関海峡(ここは下関海峡というより馬関海峡とよぶほうが、潮の色までちがってくる)は、潮が激しくうごき、潮にさからってゆく外国の大船までが、スクリューを掻き、機関をあえがせて、人間のいとなみの可憐さを自然風景としてみせてくれる。
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』より引用しました。
「壇之浦町」
という市電の停留所が下関にある。いまは小都会の町はずれという感じだけで、風情というようなものはすこしもないが、幕末のこのあたりの繁昌ぶりというのは相当なものであった。私の頭の中の地図では、壇之浦町と阿弥陀寺町とがかさなっているのだが、実際にも重なって一地帯をなしていたのであろう。
壇之浦の岩盤ぞいに、この海峡で網を打つ漁師が住みついている。今も何軒か残っている。源平合戦のころには「串崎」といわれていたあたりの漁夫が義経にやとわれて軍船を漕ぎ、義経にこの海峡の干満の状態をおしえた。海に不馴れな義経が、この潮流を利用した海軍作戦をたてて平氏をことごとく覆滅できたのは、この海峡漁師のおかげであった。
幕末には、そういう海峡漁師の家がびっしり潮の走るきわにならんでいたはずであり、かれらは潮あいをみてさっと小舟を出し、いそいで魚をとってきては陸にもどる。その魚を魚屋が買いあげる。そういう魚屋が、阿弥陀寺町にならんでいて、これが、幕末の飲み屋街であった。
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』より引用しました。
さて馬関の阿弥陀寺のことである。最初、この長州馬関に行ったとき、
「阿弥陀寺という寺はどこにあります」
と、土地のひとにきいて笑われた。明治以後、神社になってしまっているというのである。
「赤間宮がそうですよ」
といわれて、なんだとおもった。赤間宮の石段の下で、土地のひとにきいたのである。見あげると、竜宮のような丹塗りの楼門がそびえており、回廊や殿舎がそれをとりまき、ことに海上からこの楼門を仰ぐとじつにうつくしい。
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』より引用しました。
この神社は、いうまでもなく、壇之浦で平氏とともに沈んだ幼帝安徳帝を祭神とし、その陵墓もある。要するに明治以前は寺で、阿弥陀寺といわれ、その門前を阿弥陀寺町といわれていたのである。
(中略)
赤間宮にのぼると、登った左手のほうに平家一門の墓がある。
壇之浦海戦の平家方の作戦を指導した新中納言平知盛など七人の一門に、六人の侍大将、それに二位尼の墓が苔むしていて、例の琵琶法師耳無し芳一の伝説もここから出た。
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』より引用しました。
その昔 この阿弥陀寺(現・赤間神宮)に芳一といへる琵琶法師あり
夜毎に平家の亡霊来り いづくともなく芳一を誘い出でけるを ある夜番僧これを見あと追いかければ やがて行く程に平家一門の墓前に端座し一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す
あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛び往うあり その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとするぞ とて自ら芳一の顔手足に般若心経を書きつけけるほどに 不思議やその夜半 亡霊の亦来りて芳一の名を呼べども答えず見れども姿なし 暗夜に見えたるは只両耳のみ 遂に取り去って何処ともなく消え失せにけるとぞ
是より人呼びて耳なし芳一とは謂うなり
ともあれ、幕末の長州人は、この赤間宮を知らない。維新後、神道ブームがあって神仏分離という悪名高い太政官例が出た。阿弥陀寺のばあい、天皇を仏式でまつるとはけしからぬということで、にわかに神社にした。一時、
「天皇社」
とよばれていたらしい。すぐ赤間宮という名称にかえられた。
その初代宮司は、下関の豪商白石正一郎であった。この宮の石段をのぼっておもうのは、平家の悲哀もさることながら、初代宮司の悲哀である。
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』より引用しました。
耳なし芳一の由来 ※現地案内板より