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Last Updated: 4 October 2009

幕末歴史探訪・土佐、山内容堂公邸跡、後藤象二郎誕生地、板垣退助誕生地、武市瑞山殉節之地、板垣退助像、高知城をご紹介します。

山内容堂公邸址

山内容堂(やまうちようどう)文政10年(1827)〜 明治5年(1872)
土佐藩15代藩主、幕末の四賢候のひとり。

土佐 山内容堂公邸跡

山内容堂公邸跡

土佐 山内容堂公邸跡

山内容堂公邸跡

後藤象二郎誕生地碑 ※現地案内板より

天保9年3月19日、この地に誕生。義叔父執政吉田東洋に学び、藩政に抜擢される。第15代藩主山内豊信(容堂)の信任を受け、公武合体論を唱え、土佐勤王党と対立、武市瑞山らを断獄する。のち坂本龍馬と接し、容堂公にすすめて、大政奉還の大業を成す。
明治維新後は竹馬の友、板垣退助と共に自由民権運動を推進、在野勢力の大同団結に指導者の光芒を放つ。伯爵。

土佐 後藤象二郎誕生地

後藤象二郎誕生地

武市瑞山殉節之地

武市瑞山(たけちずいざん)文政12年(1829)〜慶応元年(1865)、土佐勤王党の盟主、通称武市半平太、坂本龍馬とは遠縁。岡田以蔵の自白後も吉田東洋の暗殺を指令したとの罪を否認し続け、君主に対する不敬の罪目で切腹を命ぜられ、この地で三文字の切腹を遂げました。

土佐 武市瑞山殉節之地

武市瑞山殉節之地

辞世の句

ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり

※現地案内板より

近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。
天保8年(1837)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。倒幕運動に参加、戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、を立てた。
維新後、新政府の参議に列したがやがて下野、明治7年(1874)1月、民選議院設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年4月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。
明治14年(1881)10月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、4月6日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか、
「板垣死すとも自由は死せず」
の名文句となり、怒涛の如く全国に伝承され、自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
明治20年(1887)5月、伯爵を授けられたが、一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任ぜられること2回、晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正8年(1919)7月16日、83才で死去した。
遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。

土佐 板垣退助誕生地

板垣退助誕生地碑

土佐 板垣退助像

板垣退助像(1837−1919)

※現地案内板より

慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正門である。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取り付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。

土佐 高知城 追手門

高知城 追手門

土佐 高知城

高知城