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Last Updated: 23 September 2011

岩崎弥太郎 天保5年12月11日(1835年1月9日) 〜 明治18年(1885年2月7日)

岩崎弥太郎生家 ※現地案内板より

弥太郎は天保五年(一八三四)十二月十一日にこの家に生まれ、波乱に富んだ青少年期をこの地に過ごした。
生家は平屋建て四室、藩政時代の中農の屋敷である。表座敷に南面する小庭には弥太郎が自ら置いたという日本列島を形どった石組みがあり、彼はこれに夢をのせたという。庭にある自然石の記念碑は三菱傘下、諸会社有志により建立された。
三菱のマークは家紋の三階菱に、土佐藩の三葉柏を重ねて現在の形となった。明治六年からである。
又、弥太郎の少年時代よく登った、すぐ西の妙見山には星神社があり、彼が江戸遊学の際ここに祈願し、社殿の門扉に「吾 志を得ずんば再びこの山に登らず」と大書したという。坂本龍馬と同年の弥太郎は五十一才で没したが明治維新よりわずか十八年に、彼の行った事業は壮大でその後の日本経済、政治にも大きく影響した。
生誕百五十年(一九八四)を記念して三キロ南の、江の川上公園(国道55線沿い)に銅像が建立された。  安芸市

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

岩崎弥太郎生家

日本列島の石組み ※現地案内板より

弥太郎が少年期に、天下雄飛の夢を託して、自ら石を組んだと言われています。「(日本列島は)我が庭の内にあり」といって庭を眺めていたことから、弥太郎の器の大きさを伺い知ることができます。

日本列島の石組み

日本列島の石組み

岩崎弥太郎 以下、ウィキペディアより引用しました

慶応3年(1867)、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。記録上確認出来る弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時である。弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。