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Last Updated: 13 August 2006

肥前佐賀に関して、いろいろと書きました。

肥前の妖怪‐鍋島閑叟直正‐

02/06/10(Mon)

司馬遼太郎氏著 『アームストロング砲』 には、佐賀十代藩主鍋島閑叟直正公に関して以下の記述があります。1866年(慶応二年)フランスとプロシアがウエルトにおいて大会戦を演じ、そのたった一月後早々にその報道が佐賀藩にもたらされた時のこと。

「なぜ仏軍がかったか」という点に興味をもった。仏軍は約五万、独軍(プロシア)は約八万、ほとんど倍近い人数の敵を仏軍は破っているのである。閑叟はその勝利の秘密が、仏軍のみがもっているシャスポー銃という連発銃によったのであると知ると、すぐ長崎駐在の藩吏にそれを購入するように命じた。藩吏は長崎の大浦海岸の外国商館を一軒々々訪ねてあるき、武器商人さえそういう小銃のあるのを知らないということがわかると、それらの商人を通じて上海にひきあいを出させた。
こんな藩は他にない。
長州藩などという、幕末の風雲のなかで主役的な藩でも、かれらが血道をあげているのは尊王攘夷という思想闘争で藩の軍制は戦国時代とさほどかわらなかった。長州藩が洋式装備をとり入れるのは、第二次長州征伐前後からである。
「薩人はまだわかりのよい頭を持っている。長州人にいたっては空想空論の舌さき三寸で天下の事が成るかとおもっている」
と、鍋島閑叟は鼻でわらっていた。まして佐幕側に立っている会津藩などは、閑叟の目からみれば三百年昔の武者人形としか思えなかった。閑叟は「葉隠」という独特の観念論哲学をもった佐賀藩の殿様にうまれたが、そういう観念よりもむしろ近代工業を信じ、藩国家をヨーロッパ一流なみの軍事国家に仕立てゆく以外になにも考えていなかった。
この日本唯一の工業主義者は、嘉永二年にすでに日本最初の製鉄所をつくり、洋式銃器を国産しはじめ、さらに領内の三重津で海軍所をもち、安政年間には造船産業をおこし、国産の蒸汽軍艦の製造に乗り出した。

三瀬峠

‐黒田藩と鍋島藩の関所‐

02/06/10(Mon)

三瀬(ミツセ)峠は標高585m、国道263号線で福岡から佐賀大和へ抜ける途中の峠。福岡市内から佐賀大和までの距離は大凡50km。福岡と佐賀を結んでいるので交通量は多い。峠は有料の三瀬トンネルで貫かれており(新道)、これを通らず旧道を登ると福岡の黒田藩と佐賀の鍋島藩の境で、関所が置かれた場所にでる。その跡は今でも「御番所」と呼ばれている。司馬遼太郎氏著 『歴史を紀行する』の中に ・・・「あれは、たしかに雪ですね」 と念を入れたくなるほど、この谷だけで雪があそんでいるような、そういう童話的な 風景だった。「ええ、この背振山のあたりはすぐ雪がふります。しかし里へ降りると 降っていません」と、運転手が答えた。とにかく、ここは三瀬の関所である。・・・という文章があります。この時司馬氏は福岡空港からタクシーでこの峠を越えて佐賀に入っています。

佐賀の七賢人

‐明治維新に活躍した七人‐

02/06/10(Mon)

鍋島直正(なべしま なおまさ)佐賀藩主

幕末においていち早く西洋文化を取り入れ、反射炉を建設。カノン砲、アームストロング砲、蒸気機関車、蒸気船を製造させる。

大隈重信(おおくま しげのぶ)早稲田大学創立者

2回の内閣総理大臣、大蔵卿、外務大臣など。キリスト教信者の取り扱い問題を巡って英国公使パークスと激しい論争を繰り広げ、その結果新政府内で認められ、パークスからの知遇を受けた。

副島種臣(そえじま たねおみ)外務卿、参議

明治四年、外務卿。その次の年に人買い船のマリア・ルーズ号事件がおこり、副島は「同じ人間として知らないふりはできない」と言ってこの事件を見事に解決。「正義人道の人、副島外務卿」と、種臣の名前は世界中に知れわたる。兄:枝吉神陽

江藤新平(えとう しんぺい)司法卿、参議

文部省を設立。日本初の法制を公布施行し、文明開化の基礎作りに活躍。明治7年征韓論の首領として佐賀の役を起すが、敗れて梟首さる。

佐野常民(さの つねたみ)日本赤十字社創立者

西南戦争の際、敵味方なく救護する。後に博愛社を創設、日本赤十字社創立。

島義勇(しま よしたけ)札幌の開拓判官

蝦夷・樺太を探索し、北海道開拓に貢献し、北海道開拓判事として高く評価されている。江藤とともに佐賀の役を起こすが破れて処刑される。

大木喬任(おおき たかとう)初代文部卿

明治維新の際、東京遷都を主張、東京府知事に就任。民部、司法卿も務める。

枝吉神陽

-えだよししんよう-(1824~1863)‐

02/06/17(Mon)

副島種臣の実兄。藤田東湖、吉田松陰らと並べ称される程の人物ででしたが、若くしてコレラに罹り死亡。 早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱き、この藩の唯一無二の哲学である「葉隠」をも否定。勤王運動を行い、藩校弘道館の副島種臣、江藤新平、大木喬任、島義勇らと楠公父子を祀って義祭同盟を結成しました。

葉隠

「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」

02/06/17(Mon)

中世の肥前では少弐一族が支配権を持ちますが、山口の大内一族との多年の抗争により疲弊し、西暦1559年に滅亡、その後鍋島家が台頭してきます。1590年の豊臣秀吉による全国統一を前にした九州平定にあたり、最後の勝利者になったのが鍋島直茂です。そしてその子勝茂(初代、佐賀藩主)、忠直、光茂と続いていきます。 父忠直の死に際しての家来の殉死に心を痛めた佐賀藩主鍋島光茂は、1661年、追腹停止令(殉死禁止令)を出します。そのため、幼いころから光茂の側に仕え、殉死したくて仕方がなかった光茂の家来・山本常朝(1659~1719)は、僧になって佐賀市北郊に隠棲します。彼の口述により作成された同藩の記録。(実際には田代陣基という人物に対して話しをし、その内容を陣基がまとめたと言われています)享保元年(1716年)に草稿としてでき上がり、葉隠となりました。

大隈重信と江藤新平と大村益次郎

‐相関逸話‐

02/06/10(Mon)

江戸開城後、彰義隊の無法ぶりを見ていられなかった江藤新平は、西郷隆盛にその討伐を掛け合いますが西郷が動かないため、急遽京都に戻ります。岩倉具視の許可を得、彰義隊討伐する司令官の人選に入ります。当初同郷の大隈重信を考えますが、英国公使パークスやり込めたことに意気揚々の重信に幻滅し、木戸孝允との相談の結果大村益次郎にその役を引き受けてもらうことになります。大村は江戸に行き、町を焼け野原にせず討伐する策を練りますが、そのためには新式の銃器類など兵器を整える必要があり、費用は二十五万両ほど必要だと考えます。しかし新政府にはそのような金はなく、どうしようもない状況にありました。この時期、南北戦争が終わり不要となった戦艦を旧幕府が買うということで、大型戦艦(甲鉄艦:ストーン・ウォール、排水量1358トンの新造戦艦)が横浜港へ入港します。しかし既に買主である幕府を崩壊しており、宙に浮いた格好になっていました。これを何とか買い取ろうと大隈重信は富商達から無理矢理金を掻き集め二十五万両を用意します。しかし、米側は大型戦艦を売ってくれないため大隈はこの25万両を大村益次郎に渡し、その後益次郎は戦闘1日で彰義隊を壊滅させます。その時の様子が 『歳月』にあります。
「万策つきた」と、大隈は江戸城にもどってきたが、この男の思考はつねに流動して窮するということがないらしく、かれは大村の席にゆき、「金は瞬時も遊ばせてはならぬ。二十五万両の金は、貴公が彰義隊攻めに使え」と、大声でいった。大村は、さすがにあきれ顔で、「で、甲鉄艦は?」と反問した。米国がいざ甲鉄艦を渡すという時期になったばあい、無一文ではどうにもならぬではないか。「そのときはそのときの才覚だ」と、大隈は言い、江藤をまるで下僚のようによびつけて、「あんたは会計判事である。算盤方の人数をふんだんにもっているだろう」と言い、二十五万両の運搬をたのんだ。二十五万両といえば千両箱にして二百五十箱ある。それを運ぶにはよほどの骨であり、その運搬人数を貸せというのである。---おれは、それだけが能か。とは、自尊心のつよい江藤はおもわなかった。かれは黙然と立って自分の仕事部屋にもどり、吏僚にその旨をつたえ、それらの金をことごとく大村の部屋へ運ばせた。

佐賀の乱

‐相次ぐ反乱‐

02/06/10(Mon)

1874~1877年にかけて、
1874. 2月 佐賀の乱
1876.10月 熊本・神風連の乱(太田黒伴雄ら二百名程)
1876.10月 福岡・秋月の乱(宮崎車之助ら四百名程)
1876.10月 山口・萩の乱(前原一誠ら五百名程)
1877. 2月 鹿児島・西南の役

明治政府は徴兵制の導入を決定し、それまでの各藩による分割統治を改め、強力な中央集権国家を作ることにしました。旧武士たちは士族と呼ばれ平民より上の階級ということにはなりますが、実際にはなんら特権があるわけでもなく、藩からもらっていた石(給料)も貰えなくなり、武士の魂としていた刀も召し上げられてしまい(廃刀令:1876年)、これにより士族の生活は非常に困窮することになります。1876年に連続して起きた神風連の乱、秋月の乱、萩の乱はこの廃刀令に対する武士たちの怒りが爆発したものといわれています。

佐賀の乱

新政府の中で大久保利通の力が強くなると、佐賀出身の士族たちの中には政府の方針に反発する者が多くなります。江藤新平は大久保利通と韓国出兵を巡って対立、この時期佐賀が不穏な空気に包まれていることを憂慮し、参議を辞して郷土の士族たちを抑えるため帰郷します。しかし、2月1日過激派の一部が政商の小野組の支店を襲撃、これを知った佐賀の乱のもう一人の指導者とされた島義勇も東京より急遽佐賀に入りますが、結果的には抑えるどころか首領として担ぎ上げられます。結局反乱軍は近代兵器を装備した熊本鎮台の政府軍に鎮圧され、江藤と島は梟首となりました。

西南の役

明治10年(1877年)、西郷隆盛ら鹿児島士族が起こした日本最後の内戦。2月15日、一万三千の薩軍が鹿児島を出発すると、九州各県の旧士族が部隊を編成して加わり、総勢は三万を越えます。熊本からは、熊本隊や人吉隊などが参加しました。政府軍も9個旅団:約九万の兵を投入し、熊本城周辺や田原坂で激戦を繰り広げました。熊本城での攻防は長期にわたりましたが、田原坂の戦いで物量に勝る政府軍に破れた薩軍は、敗れてしまいます。8月には宮崎県長井村で大半が降伏、西郷隆盛らも9月24日鹿児島の城山で全滅し、我が国最後の内乱となった西南の役は終結します。