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Last Updated: 6 August 2006

薩長土肥の肥、これは肥前佐賀藩のことです。幕末、薩長土からは英雄がでましたが、肥前佐賀藩は二重鎖国をひいており志士は居ても藩外には出ず、活躍した人物がおりませんでした。しかし佐賀藩は国内に他とない厳しい教育制度を持ち、優秀な人材を抱えていたのです。彼等は倒幕後、明治政府の整備において活躍しました。

司馬遼太郎氏の 『歳月』 を読めば江藤新平らこの幕末佐賀藩のことがよく分かります。

佐賀城 鯱(しゃち)の門

城の建物で残っているのはこの鯱の門だけです。しかしこれは再建されたものではなく1726年に建てられたものが現存しているそうです。二重二階の櫓門で約1.7mの鯱が一組載っています。門には佐賀の乱で撃ち込まれた銃弾の痕が残っています。

佐賀城 鯱(しゃち)の門

佐賀城 鯱の門

佐賀城 鯱(しゃち)の門

佐賀城 鯱の門

佐賀の乱で撃ち込まれた銃弾の痕

佐賀城 鯱の門 佐賀の乱で撃ち込まれた銃弾の痕

佐賀の乱

明治6年、征韓論をめぐり大久保利通らに敗れた江藤新平は、西郷らとともに参議を辞します。(この時、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎も連なり辞職)この頃新政府に不満をもつ旧士族らは爆発寸前で、特に肥前佐賀は不穏な空気に包まれていました。そんな中、江藤は板垣、副島、後藤らの反対を押し切り東京から佐賀へ下野します。

江藤がまだ佐賀に入る前の2月1日、過激派の一部が政商の小野組の支店を襲撃すると、大久保は待ってましたとばかり江藤を首領と決めつけ大規模な制圧軍を組織します。江藤は大久保の罠にかかったようなものでした。その後佐賀入りした江藤は首領として担ぎ上げられます。戦闘の末反乱軍は近代兵器を装備した政府軍に鎮圧され、江藤ともう一人の指導者とされた島義勇は梟首となりました。

大隈重信

大隈重信
天保9年(1838) ~ 大正11年(1922)
日本初の政党内閣を組閣、早稲田大学創立者

大隈侯像

大隈侯像

大隈記念館地図

大隈記念館地図

大隈侯像

作者 オティリオ・ペシイ イタリア人彫刻家。世界的に有名であり、老侯像は彼の傑作といわれる。

大隈記念館

大隈記念館

大隈記念館

大隈重信が使用した義足

右足切断遭難 ※大隈記念館資料より

明治22年10月18日午後4時過ぎ、御前での閣議を終えた大隈は、馬車で霞ヶ関の官邸に向った。馬車が外務省の門前にさしかかったところ、フロックコートに身をつつんだ30歳前後の男(来島恒喜:くるしまつねき)が近づいてくるや、突然馬車めがけて爆弾を投げつけた。右足に重症を負った大隈は、憤然兇徒の方を振り向いて「馬鹿者めが」大喝一声して、膝の上に燃える弾片を払った。凶行におよんだ男は、爆弾の破裂したのを見とどけると即座に短刀で咽喉をかき切り、その場に斃れた。

右足を失った大隈重信は来島について尋ねられ、「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。若い者はこせこせせず、天下を丸のみにするほどの元気がなければだめだ」と語った。
※語録「大隈重信は語る」より。

大隈重信旧宅(生家)

現在の水ヶ江二丁目、佐賀城下の会所小路は多くの武家屋敷があった場所です。川筋には蔵屋敷や問屋が並び、小路には役人や商人が集まる会所があったことから、会所小路の名が付けられました。大隈重信は天保9年(1838)ここで生まれました。
大隈家は代々兵法家で、父信保(のぶやす)は、萩野流砲術家として名声があり、禄高四百石の石火矢頭人(いしひやとうじん:砲術長)でした。

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

大隈重信旧宅(生家)

明治元年、新政府を戦慄させる外交事件が起こります。新政府は、旧幕時代からの切支丹国禁の方針をそのまま踏襲し、信者を弾圧したため、各国の公使を憤慨させました。英国公使のパークスが代表となり、新政府に国禁の撤廃をもとめました。

以下司馬遼太郎氏の  『歳月』 より引用しました。

政府はおどろき、この全権は、佐賀の大隈しかない。ということになった。「長崎にいる大隈八太郎という佐賀ものは、およそ外国人というものを怖れず、かれらを煙に巻き、その前で大法螺をふく」というのが当時京都まで鳴りひびいていた評判であった。なにしろパークスは傲岸で怒りっぽい上に、高圧的態度だけが極東における外交の唯一の手であると信じている男だけに、それと渡り合う相手としては尋常一様の人物では間にあわず、よほどの奇物を出す必要があろうというのが新政府の人選方針であった。大隈はそれにえらばれた。大隈にとって、かれが歴史の階段を駈けのぼるいわば最初の一段であったであろう。

大隈重信像

大隈重信像


大隈記念館資料・大隈重信旧宅資料より

和暦年(西暦)大隈重信年譜 / 主な出来事
天保 9年
(1838)
佐賀の会所小路に生まれる。
安政 2年
(1856)
弘道館で南北騒動が起こり首謀者として退学させられる。
慶応 元年
(1865)
長崎に英学塾「致遠館」を設立。
明治 元年
(1868)
イギリス公使パークスと論争。
明治 3年
(1870)
参議となる。
明治 6年
(1873)
大蔵卿となる。
明治15年
(1882)
立憲改進党を結成しその総理となる。東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校する。
明治31年
(1898)
憲政党を結成、第一次大隈内閣をつくる。
大正11年
(1922)
逝去。