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Last Updated: 6 August 2006

佐嘉神社と江藤新平に所縁の地をご紹介します。 佐嘉神社は名君鍋島直正公と直大公をお祭りしています。鍋島閑叟直正は国内初の反射炉建設、カノン砲、アームストロング砲、蒸気機関車、蒸気船を製造したことで有名です。

佐嘉神社

佐嘉神社

カノン砲

カノン砲

アームストロング砲

アームストロング砲

佐賀の七賢人

佐賀の七賢人(The Seven Wise Men of Saga)

佐賀の七賢人(上写真右側)

最上段:鍋島直正(なべしま なおまさ)
中段左より、大隈重信(おおくま しげのぶ)、江藤新平(えとう しんぺい)、副島種臣(そえじま たねおみ)
下段左より、佐野常民(さの つねたみ)、島義勇(しま よしたけ)、大木喬任(おおき たかとう)

本行寺  永正年間、龍造寺胤家創建の日蓮宗寺院 佐賀市西田代1ー4ー6

佐賀市の本行寺

本行寺

ここには佐賀の乱での非業の死を遂げた江藤新平の墓があります。

江藤新平は二重鎖国をひく佐賀藩にあって、幕末に脱藩した数少ない人物です。脱藩は斬首に値する罪ですが、幸運にも名君鍋島閑叟直正に許され、倒幕後は明治政府で江戸軍監、江戸府判事、江戸鎮台府判事などを歴任します。明治五年司法卿となり、近代国家に相応しい司法制度の整備に尽力しました。明治後長州閥の私利を貪る体質が許せず、中でも巨魁の大蔵大輔井上馨の不正を追求し辞職にまで追い込みました。

その後参議にもなり、西郷隆盛らとともに征韓論を唱えますが、反征韓論派の岩倉具視・大久保利通らに敗れ、その後下野します。もともと大久保利通とは気が合わず(両者とも聡明な頭脳の持ち主であり、互いにとって代われる実力の持ち主であった)、互いに憎みあう関係にありましたので、下野後に起きた佐賀の乱は、大久保にとって江藤を葬る絶好機となりました。

江藤新平の墓

江藤新平の墓

江藤新平の墓

江藤新平の墓

江藤新平に関しては、司馬遼太郎氏の 『歳月』 に詳しく書かれています。タイトルとなった 『歳月』 ですが、同小説の中に次のくだりがありました。脱藩し、死罪こそ免れたものの六年にわたる永蟄居を許された直後のくだりです。

江藤にはそれ以上のくやしさがあった。おなじ佐賀藩といっても、手明鑓とよばれる卑士階級にうまれたことであった。貧困もいい。屈辱もいい。なによりも江藤という政治ずきな、仕事ずきな、なによりも功業心のつよいこの精力漢を鬱屈させていたのは、この階級に身を置くかぎり藩政にたずさわれぬということであった。これはあたかも絵師を志す若者に絵具や紙絹をもたせぬということであり、絵を指で空中に描かせつづけるということであり、事実江藤は、身もだえするような思いで空中に絵を描きつづけてきた。ついになすこともなく中年になった。この、ながい歳月の怨念が江藤のこの三十四歳という年齢にこもっている。

江藤新平銅像

江藤新平銅像(神野公園内)

神野公園

旧藩主鍋島閑叟直正公の別荘で、弘化3年(1846年)造成、一般に「神野のお茶屋」と呼ばれていたが、大正12年に公園として市民に開放された。