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Last Updated: 21 February 2010
田中義一誕生地、別称指月城(しづきじょう)、菊屋家住宅、青木周弼旧宅、村田清風別宅跡、武家屋敷(野田家)などをご紹介します。
以下、山口県出身の直木賞作家古川薫氏の『歴史散歩 城下町萩 (歴史読本シリーズ)』
より引用しました。
山口県下では、長門国の国府だった長府(下関市)が、そのまま近世城下町となった。貴族的系譜の町の上に、武士の集落がそっくり載ったのである。萩と同じく明治以後の開発が遅れ、武家屋敷も多く保存され、城下町の雰囲気がよく伝えられている。山、海にかこまれた美しい町である。
ちんまりした長府にくらべると、萩はやはり宗藩の城下町らしく規模も大きい。これほどの町が、ほとんど全域にわたって城下町の遺構をとどめたのは、たしかに稀有のことというべきだろう。
山の緑と、海の青、そして幅広い二本の川にはさまれた萩は、軍事と生活条件を兼ね備えた土地であった。冬、日本海から季節風が吹きつけてくる山陰にしては降雪が少ない。対馬海流の影響を強くうけて、気温も高く多湿である。
城の縄張り、城下の町割りなどをする当初は、外敵を意識した荒々しい空気がたちこめるだろうが、やがて平和な歳月がつづくうちに、町は整頓され、飾られもする。大自然と調和した落ちついた都市として定着していくのだ。質実、素朴ではあるが、武家らしい美的感覚で装われた城下町のたたずまいに魅せられて、萩には大勢の都会人がやってくる。
自然を破壊し、人工的な機能ばかりが強調され、非常なコンクリートにかためられた都市に生活している多くの現代人にとって、萩のような旧城下町は、人と自然が共存するオアシスにも感じられるのだろう。
※現地案内板より
田中義一(1864~1929) 近代の軍人、政治家、男爵。藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として呉服町に出生。13歳のときに新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した。大正七年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣をも兼任した。
萩城沿革
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、隠居を命じられ、112万石を防長2国36万9千石に
減封された。
1603年(慶長8年) 萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を築城の候補地とし、幕府に打診、結果山陰の僻遠地
である萩となる。
1604年(慶長9年) 萩城建造に着手、1608年(慶長13年)落成。
1863年(文久3年) 幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移し、藩庁としての役目を終える。
1874年(明治7年) 廃城令により解体。
形態:平山城/平城(海城)〔梯郭式〕+詰の城〔標高143m〕
遺構 石垣、堀、天守台、詰の丸、復元土塀 (国指定史跡)
萩城は、指月山を背に建てられていたため別称指月城(しづきじょう)とも言います。
萩藩の御用も勤めた豪商の家、主屋は切妻造り、桟瓦茸きで北面し、西側に通り土間があり、床上部は前寄り一間半を店とし、その奥は横に二または三室が三列に配されていた。全国でも最古に属する大型の町家として極めて貴重。主屋と数棟の蔵が建ち並ぶ西側の景観は見ごたえがあり、国指定史跡萩城城下町の地域内にあってその重要な構成要素の一をなしている。(主屋17世紀前半、他18~19世紀)
幕末当時、青木周弼は日本屈指の蘭学者でした。また、後に青木家を継ぐ実弟・研蔵も長崎で最新の医学を学び、種痘の技術を始めて藩にもちかえり、天然痘を予防することに成功しました。研蔵は明治2年(1869)に、明治天皇の大典医に任命されました。
青木周弼は、高杉晋作が天然痘に罹ったおりこれを治療し、長崎遊学時にはシーボルトに師事しました。
村田清風(1783~1855)は、天保の改革で萩藩の財政の立て直しや軍備の増強を行い、後の萩藩の明治維新での活躍の基礎を築いた。別宅とは、萩市の隣の三隅町にある本宅三隅山荘(国指定史跡)に対する呼び方である。
清風は文政3年(1820)、38歳のときにこの屋敷を買い、萩藩の政治にたずさわった25年間住んでいた。しかし現在では、清風が暮らしていた屋敷の母屋はなくなってしまい、その300坪(991.24平米)の敷地と長屋門が残っているだけである。長屋門は、木造桟瓦葺き平屋建て、屋根は寄棟造りで、道に面した長さが14.84m、奥行き4,015mである。
天保9年(1838)、村田清風は藩政の実権を握り、藩主毛利敬親のもと天保の改革に取り組みました。敬親は「そうせい(はいはい、そうしなさいという意味)侯」とまで呼ばれた人で、清風は遠慮すること無く積極的に改革に取り組んで行きます。特産物である蝋(ろう)の専売制を廃止して商人による自由な取引を許す一方、商人からは税金を取り立てました。また交通の要所である下関では豪商の白石正一郎らを登用し、越荷方を設置します。越荷方は金貸しで利息を取ったり、倉庫保管料を取ったり、大坂の相場をみながら高い利益が見込めるときに荷を送るなどして莫大な利益を得ます。このような清風の財政改革により、長州藩の財政は見事に再建されました。村田清風の藩政改革がなければ、幕末における長州藩のめざましい活躍も違ったものになっていたかも知れません。
慶安橋たもと附近に位置するこの家は、萩藩遠近組に属し、五十一石を給されていた中級武士、野田七郎左衛門の屋敷である。建物は木造平家建桟瓦ぶきで、国指定史跡「萩城城下町」の地域にも含まれ、よく旧態を保っている。
萩城跡