萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と三田尻(防府市)の御船倉を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。工程は12里(約53Km)ですが、政治的に重要な道であったため、道幅2間(約4m)の大道として位置づけられました。そのため、利用する人も多く、山口県の歴史にとって大変意義のある道といえます。
しかし、中国山脈を最短距離でこえるこのルートには、険しい坂や峠が多く、通行く人たちにとっては苦労の多い旅であったと思われます。途中には、石畳が敷かれ、御駕籠建場(おかごたてば)や御茶屋が設けられ、復元された建物もあります。
遠い江戸につながるこの道を、武士や庶民そして憂国の志を抱いた維新の志士たちはどんな思いで歩いたことでしょう。歴史の道を踏み締めて、その鼓動を確かめながら、ゆっくりと歩を進めてください。
萩往還をご紹介します。
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Last Updated: 21 February 2010
菊ヶ浜 (北長門海岸国定公園)
萩城跡から浜崎商港まで続く白砂青松の美しい海岸で、ここに沈む夕日は「日本の夕陽百選」に選ばれています。
国指定史跡 萩城城下町 ※ 現地案内板より
指定区域は萩城三の丸、中の総門から東に続く旧御成道である呉服町の通りと、これに直交する三筋の小路(東から江戸屋横町、伊勢屋横町、菊屋横町)及びこれらの小路の南端が直交する道路に囲まれた範囲並びにその周辺の一部。呉服町通りには、萩藩御用達の菊屋家や幕末の商家久保田家などがあり、小路沿いは中・下級の武家屋敷で、史跡木戸孝允旧宅、青木周弼・周蔵の旧宅(江戸屋横町)、高杉晋作旧宅跡(菊屋横町)などがある。町筋とともに商家や武家屋敷の家並みの配置がよく保存され、城下町の景観を偲ぶことができる。
国境の碑
この峠は、板堂峠といい周防と長門の国境にあたります。この国境の碑は、高さ二メートル余りの花崗岩に、
南 周防国 吉敷郡 北 長門国 阿武郡 文化五年戊辰十一月建立 と彫ってあります。
歴史の道 萩往還
一の坂御建場跡(六軒茶屋跡) ※現地案内板より
「お成り道」(参勤交代や領内巡視用の道)として整備された萩往還は一里ごとに一里塚が設けられ、各所に往還松が植えられていました。また、藩主一行の通行に伴う各種の施設もつくられました。このうち、「御建場」や「お茶屋」は、比較的長時間休憩する際の施設でした。また「駕籠建場」は、見晴らしの良い場所で駕籠を降し、殿様一行が短時間休む場所として設けられていました。往還の中間地点でかつ最大の難所であったここ六軒茶屋には「一の坂御建場」が置かれました。その設計図が山口県文書館に残されています。この地に部分的に復元してある建物郡の配置は、この設計図面を参考にしたもので、江戸時代のある時期の「一の坂御建場」を想定復元したものです。六軒茶屋という地名はすでに江戸時代中頃にはでてきますが、宮野の八丁峠を越えて萩(通じる新しい道ができたのちも、ここ六軒茶屋では民家の軒先を茶店にし、往来する旅人のよい休み場所になっていました。)なお、「一貫石」の近辺に駕籠建場と呼ばれているところがありますが、ここにも駕籠建場の施設が置かれたといわれています。
萩往還 三田尻 ※現地案内板より
三田尻は、萩往還の終着点にあたるところで、御舟倉や御茶屋(英雲荘)が築かれたことにより、港町としてさかえることになりました。二代藩主毛利綱広は、御茶屋の西側を商業地区と定めたので、三田尻本町一帯は道の両側に商店がならび、多くの人々でにぎわっていました。この街づくりに力を尽くしたのが、五十君氏(のち三田尻本陣)です。また、三田尻は進んだ文化の窓口ともなり、幕末から明治にかけて活躍した人たちの旧宅跡や墓碑が残されており、往時をしのぶことができます。
文化庁 山口市 ※ 現地案内板より