明治元年(1868)、新政府による初の布告でここ霊山(りょうぜん)の地に、志士らを祀るわが国初の招魂社(現・京都霊山護国神社)が創設された。一帯には墓碑三百余があり他にも多くの殉難者が合祀されている。
昭和43年(1968)に明治百年を記念して設立された霊山顕彰会が、荒廃していた墓碑の改修を行い、参道も「維新の道」と名付けて整備した。
安政の大獄と頼三樹三郎・梅田雲濱ら志士 ※現地案内板より
嘉永6年(1853)6月のペリー率いる黒船来航以降、砲艦外交に屈服する形で解かれた諸外国との国交は、安政元年(1854)日米和親条約、日露和親条約と続けて天皇の勅許なしに徳川幕府は締結してしまう。外国を嫌い、攘夷論を推す孝明天皇の「皇祖に申し訳たたず退位する」という言葉に呼応する形で攘夷論と尊王論はひとつになり、政局の中心は京へと移行、尊王攘夷派志士たちは一挙に倒幕運動へと傾倒してゆく。
当時、徳川幕府は将軍継嗣問題、外交条約調印で政局が割れていた。大老に就任した井伊直弼はこれらを強行採決し、反勢力への弾圧が対抗策として施行され、小浜藩士・梅田雲濱、鷹司家の小林良典、頼山陽の三男・頼三樹三郎、長州の吉田松陰ら多くの有能なる学識者が次々とその対象として捕縛されるに至った。その総数は百五十余人に及び、大部分が江戸送りとなり、斬首もしくは流罪と厳罰を受けた。この大弾圧は全国の尊王攘夷派を激昂させる結果となり、「違勅の元凶 井伊を葬れ」とついに井伊大老は、安政6年(1860)3月登城途中、江戸城桜田門で水戸藩浪士に襲撃を受け殺害される。
この事件を期に徳川幕府は終焉へと加速、明治維新へと大きく時代は流れてゆくのではあるが、憂国の赤誠もむなしく維新の鴻業の礎石となった殉難者のその損失は計り知れない。
【京都霊山護国神社】
元治元年甲子七月十九日戦死者埋骨所
【禁門の変(きんもんのへん)=蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)=元治の変(げんじのへん)=元治甲子の変】
禁門の変(蛤御門の戦い) ※現地案内板より
元治元年甲子(きのえね)(1864)7月19日長州兵三方面から発して御所を目標に進んだが、たがいに連絡協力の余裕なくそれぞれ三ヶ所で勝手な戦いとなった。福原越後の伏見勢は北上して藤ノ森で大垣兵、竹田街道で彦根兵と新選組たたかれあっけなく敗走、国司信濃の天龍寺軍は一挙に御所の西側をついたが、会津・薩兵のため蛤門から撃退され、益田右衛門介の山崎軍は南から堺町門に迫りながら越前兵に壊滅させられた。
この日のいくさを後世「蛤御門の変」あるいは「禁門の戦い」と称す。実は三つの軍団の三つの戦闘なのである。その際に来島又兵衛政久、久坂義助通武、寺島忠三郎昌昭、入江九市弘毅、真木和泉守保臣等外数十名戦死あるいは屠腹する。
これらの志士ことごとく霊山に眠る。
高杉、久坂、入江、寺嶋らの墓
水戸藩招魂碑 ※現地案内板より
明治維新時に国事にたおれた水戸勤皇殉難烈士千七百八十五柱が合祀されている。
水戸藩烈士の殉難した事件
元治甲子の変(千七十四柱)、安政の大獄(七柱)、桜田門外の変(二十一柱)、東禅寺の変(十一柱)、坂下門の変(五柱)、越前敦賀の殉難(三百四十五柱)、その他(三百二十二柱)
河上彦斎(かわかみ げんさい)
天保5年(1834)~ 明治4(1872)、尊皇攘夷派の熊本藩士。幕末四大人斬りの一人。
河上彦斎について、海音寺潮五郎氏は
『幕末動乱の男たち』
に次のように書かれています。
彼は、その名を聞くだけで人が顔色をかえたほど恐れられたというが、色白で、少し反ッ歯の痩形の小男で、平生は実に物静かで、口数が少なく、ことばつきはやさしく、女性的にさえ見えたという。しかし、目は三白眼で、国事を論ずる時はなかなか雄弁で、その三白眼が異様な光芒を放って、何ともいえない凄みがあったという。
道場剣術はへたで、ポカポカなぐられたが、真剣勝負になると無類に強かった。彼の人を斬る方法は、右足を前にふみ出し、少し膝を曲げ、左足をうしろにのばしてその膝を地につけんばかりにして、右手だけの片手斬りで斬った。これは自得の刀法で、絶対に斬りはずすことはなかったという。
刀なども、いわゆる名刀をもとめず、
「刀は人の骨が斬れればよかのじゃが、人の骨の斬れん刀はなか。長すぎず、短かすぎず、釣合いのとれた、手の内のよか刀が名刀たい。世間の人のいう名刀はおどんには用事なか」といっていたという。
池田屋事変 ※現地案内板より
浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた新選組は元治元年(1864)6月5日早朝、武田観柳斎らにより桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。土方歳三による激しい拷問により志士密会と大謀議を自白。同日夜半、池田屋にて会談中の尊王攘夷派志士たちを新選組・近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助らが襲撃。これにより、宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助ら優れた人材が闘死もしくは捕縛され失われた。また、この事変が期となり長州藩が挙兵、上洛。禁門の変がおこる。
吉田稔麿 辞世の句
「むすびても 又むすびても 黒髪の みだれそめにし 世をいかにせむ」
長州藩邸から池田屋へ向かう途中に詠まれた。
梁川星巌(やながわせいがん)
寛政元年(1789)~ 安政5年(1858)、漢詩人。吉田松陰、橋本左内、梅田雲浜、頼三樹三郎らと交流があり、安政の大獄の捕縛対象となったが、捕縛直前にコレラにより死亡した。
所郁太郎
天保9年(1838)~ 慶応元年(1865)、幕末の志士。緒方洪庵の適塾に学び、医者として開業。井上聞多遭難の際に、畳針を使って縫合し、その命を救っている。
天誅組墓所
翠紅館(すいこうかん)跡 ※現地案内板より
ここに幕末の頃、西本願寺の別邸で、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士たちの会合の場所となっていた。文久3年(1863)正月27日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。この数年前から攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の会議で、攘夷の具体的な方法が検討された。世にこれを翠紅館会議という。同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。しかし、八月十八日に政変が起こって攘夷派は失脚、代わって公武合体派が主導権を握り、幕府の政局は混迷の度を加えていった。
【京都市】
現地案内板より