明治は薩長が中心となり創った国家です。草創期の武官・文官は圧倒的に薩摩出身者が占めました。征韓論に敗れ西郷が下野し、それに薩出身士官が追随したためその後は、『長の陸軍』、『薩の海軍』などと言われたりしました。そんな中、鹿児島市中心部にある加治屋町は驚くほど多くの偉人を輩出しています。明治時代に関係の深い偉人たちをリストアップしてみました。司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』、『明治という国家』、『坂の上の雲』にはこれら人物像が詳細に記されておりますが、その内容を参考に人物像をコメントしています。
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西郷 隆盛 さいごう たかもり (1827年~1877年) |
明治維新最大の功労者。新政府では参議・陸軍大将・近衛都督となる。人並み外れた人徳者、その徳の香をもってひとびとを魅了した。 | |
大久保 利通 おおくぼ としみち (1830年~1878年) |
司馬遼太郎氏著『明治という国家』
より。大久保利通は、才能、気力、器量、そして無私と奉公の精神において同時代の政治家から抜きん出ていた。今日にいたるまで日本の制度の基礎をつくった人間たちを、ただ一人の名で、代表せよといわれれば、大久保の名をあげます。 沈着、剛毅、寡黙で一言の無駄口もたたかず、自己と国家を同一化し、四六時中国家建設のことを考え、他に雑念というものが有りませんでした。 |
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東郷 平八郎 とうごう へいはちろう (1847年~1934年) |
日露戦争では、海軍大将、連合艦隊司令長官。旅順のロシア艦隊、日本海海戦におけるバルチック艦隊を撃破したためアドミラル東郷として世界的な名声を得ることとなる。 | |
山本 権兵衛 やまもと ごんのひょうえ (1852年~1933年) |
当初海軍は陸軍に従属するような立場にあった。山本は、陸主海従から陸海平等への大改革を断行した海軍育ての親である。日露戦争時には海軍大臣・海軍大将として活躍。連合艦隊司令長官に東郷平八郎を抜擢、『東郷は運のいい奴』ということをひとつの理由としている。 | |
大山 巌 おおやま いわお (1842年~~1916年) |
明治新政府で陸軍卿・陸軍大臣、近代的日本陸軍の建設に貢献した。日露戦争での満州軍総司令官としての活躍は有名。西郷隆盛の従兄弟であり、キヨソネ作西郷の肖像画の顔下半分は、大山巌の顔の下半分がモデルとされている。 | |
西郷 従道 さいごう つぐみち (1843年~1902年) |
薩の海軍の巨頭として軍・政界に重きをなす。 海軍大臣・内務大臣などを歴任。西郷隆盛の弟で、西南戦争では兄を賊軍として追討するという尋常この上なき悲劇を味わう。キヨソネ作西郷の肖像画の顔上半分は、従道の顔の上半分がモデルとされている。 | |
黒木 為禎 くろき ためもと (1844年~1923年) |
戊辰戦争に参加し、明治維新後は陸軍に入る。西南戦争では政府軍として参加し、同郷である西郷と戦うことになる。その後、伯爵・陸軍大将、日露戦争第一軍司令官(奉天会戦で活躍) | |
篠原 国幹 しのはら くにもと (1836年~1877年) |
維新後に陸軍少将。征韓論に敗れた西郷に従って下野。西南戦争の薩軍一番大隊長、熊本吉次峠の戦いで胸を撃ち抜かれて戦死。本質は血気盛んな薩摩隼人であるが、沈着冷静で人望厚く、長州系将校をして「桐野は惜しくないが篠原は惜しい」と言わしめた。西南戦争では熊本隊の隊長となった池辺吉十郎が篠原を訪ね、朝から晩まで酒をつぎあったのにのに、結局篠原の声を聞かないままに別れたという逸話あり。 | |
村田 新八 むらた しんぱち (1836年~1877年) |
明治維新期に西郷隆盛のもとで活躍。岩倉遣欧使節一行と欧米を視察。征韓論で敗れた西郷を追って下野。西南戦争の薩軍二番大隊長。六尺(30.3cmx6)を越す長身と端正な容貌、勝海舟をして『大久保に次ぐ傑物』と言わしめ、大久保自身も次代の宰相に相応しい人物と期待していた。 | |
伊地知 正治 いじち まさはる (1828年~1886年) |
幕末薩摩藩の軍師、目と足が不自由で身長も150cmほどの小柄であった。西郷隆盛が最も信頼した人物の一人。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いや会津若松城攻めの指揮をして新政府軍を勝利に導く。維新後、修史館総裁、宮中顧問官等を勤める。 | |
吉井 友実 よしい ともざね (1828年~1891年) |
沖永良都島に流されていた西郷隆盛を連れもどす使者となったり、坂本龍馬や中岡慎太郎が暗殺されたとき、近江屋の現場にも駈けつけるなど、幕末から活躍。明治後、日本鉄道会社社長、宮内次官、枢密顧問官となる。 | |
井上 良馨 いのうえ よしか (1845年~1929年) |
戊辰戦争で活躍。明治八年(1875)江華島事件に雲揚号艦長として遭遇。海軍大学校の初代校長、各地の鎮守府司令長官を経て、元帥・海軍大将。 |
加治屋町ではないけれど・・・薩摩出身の偉人たち
黒田 清隆 くろだ きよたか (1840年~1900年) |
戊辰戦争では参謀として北越・奥羽を転戦、後に箱館戦争では奇襲作戦に成功し戦争を終結させ、榎本武揚ら旧幕軍幹部の助命に奔走した。明治三年北海道開拓次官になって、近代化の基礎をほぼ築くという功績あり。しかしアルコール性痴呆症と言われるほどの酒乱癖があり、酔って妻を惨殺したとの噂もある。 | |
川路 利良 かわじ としなが (1834年~1879年) |
鹿児島市皆与志生まれ。日本警察の父。警察制度視察に渡欧し、『すべての人々、すべての物事を監視する』というフランスで秘密警察網を張り巡らしたジョゼフ・フーシェを崇拝していた。その後東京警視庁創設、初代大警視(警視総監)に任命される。西郷が下野すると大久保利通の片腕し、西南戦争では陸軍少将として警察隊を率い従軍。大久保が暗殺された翌年再び渡欧するが病に倒れ、帰国するが間もなく死亡。 | |
別府 晋介 べっぷ しんすけ (1847年~1877年) |
鹿児島郊外現在の吉野町出身。桐野利秋の従兄弟。明治後は西郷の密命を受け、近衛陸軍大尉として朝鮮半島の軍事偵察に赴任。桐野とともに西郷から非常に愛されていた。西南戦争では先鋒隊を率い、敗戦に際しては西郷の介錯をつとめ、自らも後を追い岩崎谷で自刃した。 | |
桐野 利秋 きりの としあき (1838年~1877年) |
鹿児島郊外現在の吉野町出身。幕末は中村半次郎と名乗り、「人斬り半次郎」との異名をもった。明治後は西郷のひきで陸軍少将となる。西郷が征韓論で敗れ下野、これに追随し鹿児島へ戻る。その後西南戦争では薩軍四番大隊長となり最後まで戦うが、額を撃ち抜かれて戦死する。 |