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Last Updated: 22 January 2010

ドイツ人のシーボルトは文政6年(1823)にオランダ商館医として長崎の出島に赴任します。翌年の文政7年(1824)には鳴滝塾開設し、そこで高野長英や二宮敬作などが学びました。その後楠本タキとの間に生まれたイネは、後に大村益次郎を蘭学の師とし、女医を目指した彼女は、益次郎の最期を看取るという運命をたどります。

シーボルトとその娘イネに関しては、吉村昭氏の『ふぉん・しいほるとの娘』に詳しく書かれています。

シーボルト胸像

シーボルト胸像
鳴滝塾(なるたきじゅく)跡地。長崎市鳴滝「シーボルト宅跡」

シーボルト宅跡 現地案内板より

文政6年(1823)に出島和蘭商館医として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や、門弟に対する教育活動、日本研究活動などを行いました。全国各地から集まった門弟達は、西洋の進んだ学問や科学的な思想を学び、中には幕末に活躍した蘭方医や、日本の近代化に大きく貢献した人物も少なくありません。その一方で、動物や植物をはじめとする日本のあらゆるものを対象として科学的に調査・研究を行い、後年その成果をまとめ、ヨーロッパにおいて日本を正しく紹介することに努めました。
また開国後の安政6年(1859)再来日を果たしたシーボルトは、この地を日本における住まいとし、日本各地の珍しい植物を取り寄せて植物園を造るなど、再び鳴滝を拠点として日本研究を継続しました。この地は、我が国における西洋近代科学発祥の地であると共に、日本が広くヨーロッパに紹介された研究活動の拠点であり、日本の近代化並びに国際交流に大きな役割を果たしました。

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡

シーボルトノキ 現地案内板より

クロウメモドキ科の落葉小高木です。シーボルト自身との直接的な関係はなく、シーボルト宅跡で見つけられたものを、日本植物学の第一人者であった牧野富太郎が新種と思い、明治45年(1912)に学名ラムナス シーボルディアナ、和名シーボルトノキと名づけて発表したものです。
しかし、1939年に御江久夫により、中国産のクロウメモドキと同じものであることが明らかにされました。日本に自生するクロウメモドキと比べると、やや葉が大型で、枝先は棘のようになっています。

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡 シーボルトノキ

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡 シーボルトノキ

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡 倉庫跡

倉庫跡

鳴滝塾跡地 シーボルト宅跡 シーボルト記念館から見下ろしたシーボルト宅跡

シーボルト記念館から見下ろしたシーボルト宅跡

現地案内板より

長崎街道は小倉に至る全長57里(約228Km)の道のりで、江戸時代、九州唯一の脇往還(脇街道)でした。江戸参府の際には、多くの人で賑わい、オランダ商館長や商館医・シーボルトなどが往来したほか、幕末頃には坂本龍馬や吉田松陰など多くの名士がこの道を通り長崎へ訪れました。長崎街道は、長崎から各地へ様々な西洋の物や技術、文化を運ぶ重要な街道で、当時、高価だった砂糖もこの道を経由して江戸などに運ばれ、「シュガーロード」と呼ばれていました。また、南蛮渡来の珍獣といわれた象やラクダも長崎に上陸し、江戸などへ上りました。文政4年(1821)上陸したオスとメスのラクダはおしどりのように寄り添い歩いたそうで、夫婦揃って道中などをすることを「ラクダのミュート(夫婦)」と呼ぶようになったというエピソードも伝えられています。

シーボルト通り

ラクダも歩いた長崎街道