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Last Updated: 14 August 2006
司馬遼太郎氏の幕末小説の舞台となった崇福寺、花月などをご紹介します。
以下、司馬遼太郎氏著:『馬上少年過ぐ』の「慶応長崎事件」より以下引用しました。
慶応三年七月六日の夜である。折りから盂蘭盆会(うらぼんえ)の最中でもあって、南京町からこの山手の寺にかけては灯の群れで満ちていた。
土佐藩海援隊士菅野覚兵衛は、この夜、白のだんぶくろ、それに朱鞘直刀の大小を差し、朴歯の下駄、といった海援隊独特の服装で見物にまじっていて、崇福寺への坂をのぼっていた。同行は、おなじく隊士の佐々木栄。
「異国に在る思いだな」
竜宮城のそれに似た崇福寺の赤い楼門をくぐりながらこの土佐人はいまひとりの土佐人にいった。崇福寺は唐人寺である。長崎の日本人たちは、赤寺、とよんでいた。
この夜、英国水兵殺害事件が起きます。
鍛冶屋町にある崇福寺は、寛永6年(1629)、福州地方の唐人たちの希望で、唐僧超然が招かれ建立した寺院です。
花月の敷地は、丸山町・寄合町・中小島の三か町におよび当時家運の隆盛と共に拡げられ、そこに家屋が新築されるたび世間から称賛されたと伝えられています。花月は、もと引田屋(ひけたや)といいその庭園に在った亭を花月楼といったのですが、大方清雅の愛顧により崎陽随一の酒楼と喧伝されるに及び、遂にはこの名を採って店名としたそうです。開業は350有余年前の昔です。当時オランダ人や唐人達の丸山見物の際には、花月に必ず立ち寄ったのです。それだけに抱え遊女のうちには、其扇とシーボルトなど海の彼方の人々との艶話を残しています。
幕末には、数多くの志士たちが花月に出入りしました。大広間の床柱には刀痕が残っているそうですが、これは松本良順と遊びに来た坂本龍馬が残したものだと言われています。
また英国水兵が暗殺された当夜、海援隊士菅野覚兵衛は花月に遊び、暗殺の嫌疑をうけます。龍馬はこの事件解決のため奔走し、長崎奉行所に苦情書を提出していますが、その下書きは掛け軸として今も残っているそうです。
長崎に生まれ、幕府に仕えました。戊辰戦争で『江湖新聞』を発刊して薩長討幕軍を非難し、幕軍勝利の報道したため、明治政府により発行禁止を受け投獄。明治2年、英仏語学校日新舎を中江兆民と経営。明治21年に47歳で小説家・劇作家に転向。歌舞伎座の創立に尽力、その後糖尿病、肺結核悪化により病床につき、明治39年に死去。
司馬遼太郎氏の小説『峠』では、河井継之助は福地源一郎の紹介で福沢諭吉と会い、小料理屋で会談したことになっています。
福砂屋は寛永元年(1624)の創業です。昭和13年(1937)に長崎市から刊行された『長崎案内』には「315年前の寛永元年に、ポルトガル人よりカステラ製造を伝授。その原名はカストルボルという。カストルとはスペインの州名、ボルは菓子の意味」と、福砂屋創業に関することが紹介されたそうです。
※現地案内板より
寛永11年(1634)最初の石橋眼鏡橋が架けられて以後、17世紀末までに中島川と直交する道路筋のほとんどに石橋が架けられました。
桃渓橋は、延宝7年(1679)僧卜意の募財により架橋された石造アーチ橋です。側にある地蔵堂を卜意地蔵といい、この橋は卜意橋とも呼ばれています。昭和57年(1982)の長崎大水害により大破しましたが、その後原形に復旧されました。
古代ローマ人によって完成された石橋の技術は、ポルトガル人によって長崎に伝えられました。寛永11年(1634)、興福寺の唐僧・黙子如定禅師が架設したこの眼鏡橋は、長さ22m、幅3.65m、川面までの高さ5.46mで日本最古のアーチ形石橋として有名です。川面に映った影が双円を描くためこの名前がつけられたことはよく知られているところです。昭和57年(1982)の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元されました。かつてはこの橋を坂本龍馬や高杉晋作もわたったことでしょう。
崇福寺