秋山兄弟の故郷 松山

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Last Updated: 15 August 2006

まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。

その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の主邑は松山。
城は松山城という。城下の人口は士族を含めて三万。その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓も、そのように厳つくはみえない。

司馬遼太郎氏 『坂の上の雲』 より引用しました。

瀬戸大橋から見た瀬戸内海

瀬戸大橋から見た瀬戸内海

坂の上の雲は、日露戦争の名将・名参謀である秋山信三郎好古(よしふる)・淳五郎真之(さねゆき)兄弟と歌人正岡子規を軸に、新生日本を活写した司馬遼太郎氏の名作です。

『坂の上の雲』全八巻は長編大作でなかなか読めないという方には、神川武利氏著 『秋山真之―伝説の名参謀』 や野村敏雄氏著の 『秋山好古―明治陸軍屈指の名将』 もお薦めです。
サムライの心を持った、ふるきよき日本男児に会うことは、われわれに大きな勇気と反省の機会をあたえてくれます。

極貧の秋山家にあって、真之が生まれた時に両親が、とても養いきれないのでいっそのことお寺にやってしまおうと話しているのを聞いた好古が、赤ん坊をお寺にあげないでくれ、自分が勉強して偉くなって、お豆腐ほどの(厚さの)お金をこしらえてあげると言い放ち両親が思いとどまったという話は有名です。事実この話は好古の努力で実現し、これを知った真之は、兄のためなら命もすてる覚悟をもったそうです。

秋山兄弟生家

復元された秋山兄弟生家

復元された秋山兄弟生家

弟・秋山眞之銅像

弟・秋山眞之銅像

以下石碑より抜粋しました。
秋山兄弟(兄・好古、弟・眞之)はこの地で生まれ、育った。父・久敬は松山藩士徒目付で、江戸時代からここに居を構えていた。当初は藁屋根で僅か数室という典型的な下級武士の家で、その質素な家から日露戦争で救国の働きをした秋山兄弟が育ったことは、感慨深いものがある。

兄・秋山好古

兄・秋山好古(1859-1930)

以下秋山兄弟記念館資料より引用しました。

秋山好古は秋山藩士久敬の三男。教員を志して大阪に出たが、陸軍士官学校創設に応じて入学、さらにフランスの騎兵学校に学び、日本陸軍騎兵の父となる。日露戦争起こるや世界最強のコサック騎兵隊を破って勇名を馳せた。陸軍大将に栄進、要職を歴任したが教育総監を拝命したとき最も喜んだという。
退役時元帥奏請の動きがあったが固く辞退した。
退役直後、郷里松山の私立北豫中学校長を懇請されると直ちに快諾。勲一等陸軍大将の一私立中学校長就任は全国を驚倒せしめた。その教育を重んずる志を知るべきであろう。校長就任後は、亡父の残したこの旧屋から6年半、一切軍服を着ることなく騎馬で皆勤した。

「墓は大きなものを作ると子孫が迷惑する。軍人は立派な家を建ててはいかん。銅像などいらん」
生前のこの希望には叛いたが郷党の敬慕の念止みがたく、弟・眞之の銅像に続いて昭和11年同じ道後公園に騎馬像が建設された。先の戦争中金属供出で無念にも鋳つぶされたが、幸いにも銅像制作時に作られたレプリカが残っていたので、それを基に新技術を駆使した拡大粘土モデルを制作し、さらに作者の遺族らの監修を受け、出来る限り昔の姿にと念じ復元した。

秋山兄弟生家
秋山兄弟生家

兄・好古は大正13年から昭和5年まで、生家を増改築して住み、没後は有志により手厚く保存されていたが昭和20年、米軍の爆撃で焼失した。

秋山兄弟生家
秋山兄弟生家

現地資料より

このたび、生家の復元に際しては秋山家子孫、秋山兄弟伝記、好古友人の記録等を参考にし、また、関係法規も順守しながら、できるだけ生家の原型に近い形で建築した。家の位置は、兄弟の銅像設置のため当初よりは北側に寄せた。
この秋山兄弟生誕地の整備は、全国から延1万人の個人・有力企業をはじめ、松山中学・松山東高同窓会、北豫中学・城北高女・松山北高同窓会、愛媛友愛会、連合愛媛等の諸団体から賜った募金で賄われた。

秋山兄弟生家記念碑

秋山兄弟生家記念碑

正岡子規 所縁の地

正岡子規は秋山兄弟とともに『坂の上の雲』の中心人物であり、明治時代を代表する文学者の一人です。

愚陀佛庵

愚陀佛庵

愚陀佛庵

愚陀佛庵

愚陀佛庵(ぐだぶつあん)は、夏目漱石が英語教師として松山に赴任した際の下宿先を当時に近いかたちで復元(昭和20年の空襲で焼失、昭和57年に復元)したものです。正岡子規は療養のためにここに居候し、正岡子規が一階に、夏目漱石が二階に、一時期ふたりは一つ屋根の下で暮らしています。

夏目漱石ゆかりの旅館きどや

夏目漱石ゆかりの旅館きどや

旅館きどやは、夏目漱石が旧制松山中学校に赴任した時に最初に泊まった旅館です。正岡子規を見舞うために松山へ帰ってきた秋山真之も宿泊しています。漱石と真之は面識はあったようですが、あまり親しくなかったようです。

子規と野球の碑

子規と野球の碑

子規堂

子規堂

野球に関する歌を数多く詠んでいます。「夏草や ベースボールの 人遠し」 「打者」や「直球」など多くの野球訳語も残しました。子規堂の中には再現された子規の部屋などがあります。

道後温泉

ここ松山は道後温泉でも有名です。道後温泉は日本三古湯のひとつといわれ、その存在は古くから知られています。夏目漱石の『坊っちやん』の舞台となり愛媛県の代表的な観光地となっています。

道後温泉

道後温泉

坊ちゃん列車

坊ちゃん列車

愛媛県美術館分館

愛媛県美術館分館