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司馬遼太郎氏『坂の上の雲』、まさにクライマックスの日本海海戦で活躍する戦艦三笠を横須賀に訪ねました。
三笠は1904年(明治37年)2月に始まった日露戦争において、東郷大将が率いる連合艦隊の旗艦として、終始敵の集中砲火の中で奮戦し、同年8月10日の黄海海戦では露国東洋艦隊に大打撃を与え、遂に1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を全滅させる遺功をたてた日本海軍の代表的な軍艦であります。
日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自身を新たにするとともに、その栄光を永く後世に伝えるために、その「シンボル」として、三笠は1926年(大正15年)以来収蔵する多数の記念品とともに、ここ白浜海岸に保存され、多くの人に親しまれてきました。
要目
排水量 15,140トン 全長 132メートル 幅 23メートル 軸馬力 15,000 HP
速力 18ノット 砲 30cm x 4 15cm x 14 8cm x 20 発射管 45cm x 4
日の本乃海にとどろくかちどきは 御稜威かしこむ声とこそしれ 東郷平八郎
日清戦争で捕獲され、日露戦争では日本軍艦として活躍した、鎮遠の砲弾です。
伏見宮博恭王殿下(当時少佐)砲台長としてご奮戦の後部主砲の右砲身の一部です。明治37年(1904)8月10日の黄海海戦で被弾し破損脱落したものです。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日〜28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。 日本以外では一般に対馬沖海戦(つしまおきかいせん)と呼ばれるが、実際の海戦域は対馬沖にとどまるものではなく日本海広域に及ぶ。日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で戦われた。日本連合艦隊司令長官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、バルチック艦隊は戦力の大半を失い壊滅したが、連合艦隊の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となり、ポーツマス講和会議への道を開いた。当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は世界を驚愕させ、タイムズ紙など有力紙が確認のため発表を遅滞させるほどであった。
記念艦 三笠の由来 ※現地案内板より