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Last Updated: 15 August 2006
明の時代、ある将軍が海を渡ってこの地から上陸しました。その道中が「旅途順利」(道中平穏)だったことから「旅順」と呼ばれるようになったという説があります。
空撮2の写真が分かり易いと思いますが、旅順港口とは老虎尾半島と対岸の黄金山までのその幅270mを指し、そのうち大型の艦船が行き来できる幅はわずか90mほどです。ここに古い貨物船などを沈めロシア太平洋艦隊を外洋に出れないように閉じ込めてしまおうというのが、旅順口閉塞作戦でした。しかし結果失敗に終わります。右上の写真:203高地から見た現在の旅順港、日本軍は旅順港に停泊しているロシア太平洋艦隊を砲撃するために203高地を奪取し、観測地とすることが狙いでした。
旅順要塞の正面攻撃を諦めた日本軍は、203高地の奪取に力を入れ始めます。
激しい戦いの末、203高地を確保した日本軍は、旅順港のロシア太平洋艦隊を280mm榴弾砲で砲撃し壊滅させます。
激戦の地となった203高地では、日本軍の戦死者約5050名、負傷者約16930名と膨大な損害を出しています。そのため乃木大将は戦後、戦死者の慰霊のため、この高地を「爾霊山(にれいざん)」と改め、明治45年に砲弾の残片から10.3m高さの銃弾をかたどったこの記念碑を建てました。碑石の文字は乃木大将の筆跡です。
日露戦争をテーマとした司馬遼太郎氏の作品には、『坂の上の雲』があります。
本作品はNHKが21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」として平成19年度(2007年度)以降の放送に向け制作を開始しています。
乃木大将の次男・保典少尉(中写真右側)は203高地の頂上に近い山腹で敵弾に倒れました。長男勝典は金州で射殺されており、乃木大将は二人の息子たちをこの戦争で亡くします。
写真機の前に立った乃木大将の右手には、長男の勝典中尉と次男の保典少尉が並んで写っている写真(写真左側)が持たれていました。
旅順港