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Last Updated: 15 August 2006
この満州最大の都会は、正称は奉天府という。この都会は清によって栄えたが、その前朝のかつて明のころまでは瀋陽とよばれていた。大明帝国の辺境守備隊の軍事基地で、当時は南満州を圧するような大都会ではなかったらしい。
やがて満州から興った固有満州人(ツングース)の一首領の愛新覚羅ヌルハチ(清の太祖)がこれを攻め、その政都にした。その後、明がほろんで中国本部に清帝国がうちたてられたとき、都を北京にうつすのだが、それまではかれら騎馬民族の政都がここであった。
太祖ヌルハチのつぎが、太宗である。なお中国本部で明の毅宗皇帝が政権を維持しているとき、太宗は満州で大いに勢力をのばし、さらにこの政都を充実して瀋陽という名称を廃止し、盛京と名づけた。
司馬遼太郎氏 『坂の上の雲』 より。
2005年秋の瀋陽市です。素晴らしく澄んだ秋空をお見せしたいので、このページの写真はカラーにしました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた、日露戦争最後の会戦である。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。
奉天会戦