浜田城跡

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Last Updated: 7 August 2006

慶応2年(1866)、幕府による第二次長州征伐が開始されました。大村益次郎は石州口(島根県浜田市)方面の指揮官となります。益次郎は優れた戦術により幕府軍を破り、浜田城を陥落させました。他の戦線でも長州藩は優勢に戦い、幕府は停戦を余儀なくされます。

浜田藩追懐の碑 (司馬遼太郎氏の浜田追悼の碑文)

石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。
石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。
東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人と貨財がゆきかう山陽道があり、西方には長門・周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。
石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕し、ある者は砂鉄や銀を堀り、ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世も倦むことがなかった。
浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。
幕府は、この城をもって、毛利氏という外様藩に対するいわば最前線の牙城とした。
以後、藩主は十八代を経、城は二百四十八年つづいた。
幕末、西方の長州藩が革命化して、幕府の規制から離れた。
長州軍は時のいきおいを得、また火力と軍制を一新させ、各地で幕軍を破った。
ついには浜田城下に押しよせた。
浜田藩は和戦についての衆議がまとまらず、さらには二十五歳の藩主松平武聰は病臥中でもあって、曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。
明治維新に先立つ二年前の慶応二年(一八六六)のことである。
いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。
それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。

浜田藩追懐の碑

浜田藩追懐の碑

浜田城跡

元和5年(1619)、伊勢国松坂城から5万400石でこの地へ入封した吉田重治は、翌年から築城を開始し9ヶ月で完成させました。城郭は、松原湾に近く海抜70mほどの小山に築かれ、頂上の本丸から南西へ二の丸・井戸が並んでいて石塁が見受けられます。重治の家督を嫡子の重恒が相続しましたが、吉田騒動や世継ぎがなかったことで、わずか2代で改易になりました。

慶安2年(1649)、吉田氏の後に入城した松平周防守康映(やすてる)の時代に「鏡山事件」が起こっています。次代の康福(やすとみ)は寺社奉行を務め、後に古河へ移って老中を命じられるほどでした。その跡を継いだ康任も老中に就任して幕閣に列しましたが、天明6年(1786)の「仙石事件」に連座して老中職を辞職して隠居します。松平氏の後は、水戸徳川家・斉昭の10男武聡が入城しました。幕末の慶応2年(1866)、長州軍の攻撃を受けた武聡は、浜田城を焼いて美作へ逃亡し、浜田城の歴史が終わりました。

浜田城跡

浜田城跡

浜田城跡

浜田城跡

浜田城跡

浜田城跡

浜田城跡

浜田城跡

益次郎の配慮

山口市で発見された大村益次郎の古い文書が解読され、石州口の戦の戦略図に予想され幕府軍の敗走路が描かれていたことがわかりました。益次郎は、敵を追い詰め犠牲を増やしてはいけないという配慮から、敵の退路を予め空けておいたようです。また最近の調査で、浜田城はいわゆる天守閣を備えた城ではなく、櫓を備えた山城だったとも言われています。