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Last Updated: 7 August 2006

慶応2年(1866年)、幕府の第二次長州討伐いわゆる四境戦争で、大村益次郎が兵およそ700を率いて石州口を目指し、この地を通ります。津和野藩は戦わず長州軍を通過させます。

津和野町

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明治維新前には津和野藩亀井氏の城下町であり、山間の小さな盆地に広がる町並みは、「小京都」の代表格として知られているほか、津和野駅はSLやまぐち号の終着駅でもあり、山口市・萩とセットで訪れる観光客が多い。また、在日米軍基地のある岩国市からも車で訪れることが出来るため、基地職員や米軍兵士などといった外国人観光客も比較的多く見られる。幕末期以降の廃仏毀釈と、長崎から配流されてきたキリシタンへ、改宗の強要が実施された歴史がある。

津和野の風景

津和野町の風景

津和野の風景

津和野町の風景

多胡家表門

多胡家表門

大岡家老門

大岡家老門

森鴎外旧宅

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森鴎外(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)- 大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医(軍医総監(中将相当))、官僚(高等官一等)。従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森 林太郎(もり・りんたろう)。

森鴎外旧宅

森鴎外旧宅

森鴎外旧宅

森鴎外旧宅

西周(にし あまね)

文政12年~明治30年(1829~1897)、啓蒙家、教育者、徳川慶喜の政治顧問。榎本武揚らとオランダ留学し、philosophyを「哲学」と訳したことでも有名。西周自身も藩校養老館で学んでいる。

西周旧宅

西周旧宅

津和野藩校養老館

津和野藩校養老館

津和野城

津和野城は、鎌倉時代に能登からこの地に移動してきた吉見氏によって築城されたものです。吉見氏は源範頼の孫為頼を祖とする源氏一族で、名門の家系です。武蔵国吉見荘を領していたため吉見と称し、鎌倉前期に能登へ移動し、元寇への防衛に備えるために西国の地石見へ移動させられた関東武士団たちの一族であったといわれています。

天守台跡

天守台跡

津和野城跡

津和野城跡

津和野城跡

津和野城跡

津和野城跡

津和野城跡

津和野を通過したあとの話、以下、『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。

いよいよ、大村軍が高津川にさしかかった時である。
「橋がない!」 敵兵を前に長州兵は前進をためらった。益次郎は一喝した。兵隊たちはあわてて飛び込み、村医者上がりの司令官に癇癪を起こしながら、がむしゃらに戦い、大勝利をおさめた。そしてもどってくると、そこには応急の橋が架かっている。
益次郎はケロリとして言った。
「私に腹でもたてれば勇気も出よう。だが帰りは疲れていようから、橋を架けておいたのです」
これは緒戦における益次郎を伝えるエピソードの一つである。この戦いを通じて、村医者上がりの司令官の見せた用兵と戦術の巧みさは、幕軍のどの武将よりきわだち、対照的であったと言われる。益次郎は、ここで一つの歴史的信念を確立する。