(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 30 September 2006
鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は、慶喜の一橋家時代の側近が中心となり、慶応4年(1868)に同盟を結成、彰義隊と称し上野山東叡山寛永寺に立て篭もりました。
寛永寺の旧寺域は明治になってその殆どが公園となりました。寺域で最も面積を占めたのが御本坊と称せられた一角で、現在は東京国立博物館なっています。寛永寺本坊の規模は3,500坪(約11.5ヘクタール)という広大なものでしたが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失してしまいました。
これはその焼け残った表門です。明治11年、帝国博物館(現東京国立博物館)が開館すると正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない現在地に移されました。門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門だそうです。薬医門とは、本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいうそうです。なお門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて当時の戦争の激しさがうかがえます。
明治元年(戊辰)5月15日江戸上野に於て、彰義隊と新政府軍の戦いが展開されました。戊辰戦争の戦いの1つにかぞえられ、上野戦争とよばれています。当日の天候は雨(この時期は梅雨)で、午前7時頃、両軍は南西北3方向で戦闘を開始します。南方は寛永寺黒門口(城にたとえれば大手門)に薩摩藩が主力としてあてられ、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背面(城にたとえれば搦手門)は長州藩が主力となって団子坂に結集しました。東側は断崖ですが、北東方面を彰義隊の退却路としてあえてあけていたようです。黒門の上にある山王台砲兵陣地の威力はものすごく、その前面の小銃陣地とともに新政府軍をなやませ、暫くの間戦況は一進一退の状態が続きます。午後1時前、大村益次郎は佐賀藩の伝令を呼び、「あるむすとろんぐの大筒。もはやよろしかろう」といい、伝令は騎馬でもって走り、加賀藩邸の鍋島監物に伝えました。すぐさま射撃の命令がだされ、アームストロング砲が火を噴き、不忍池を越えて砲弾が着弾し始め、戦況が新政府軍側に好転します。アームストロング砲の威力に関して、藩侯鍋島閑叟直正は「威力猛烈なるをもって、攻城や海戦ならばともかく、内乱のために用いるならば人を殺傷しすぎるゆえ、望ましきことにあらず」と上野戦争での使用に賛同しないほどのものでした。黒門口では西郷が最強の薩摩軍主力を指揮し、防備を破り攻め入り、彰義隊は瓦解・壊走し夕方に戦闘は終結します。
黒門 東京都荒川区南千住 円通寺内
写真は戦闘の中心地にあった黒門です。明治40年10月、帝国博物館より円通寺(荒川区南千住)に下賜されたものです。戦いの痕跡が今も残っています。寛永寺の黒門は城でいうと大手門にあたるものです。この黒門に対して、大村益次郎は薩摩兵をあてることを決意していました。激戦になることは必至です。西郷隆盛に絵図をもってこの計画を説明しました。西郷は驚き、『薩摩兵をみな殺しにするおつもりか』と問いました。これに対し益次郎は『申し上げた通りです』とそっけなく回答したと言われています。真意は定かではありませんが、益次郎の性格からすると勝利のために最強の薩摩兵をあてるべきと考えたからでしょう。益次郎と西郷は不仲であったと言われており、その後の益次郎暗殺に西郷が裏で動いたという説もあるようです。
また益次郎暗殺については、司馬遼太郎氏の著書: 『王城の護衛者』の「鬼謀の人」に、益次郎が薩摩の海江田武次に同じく彰義隊の即刻討伐を説得するにあたって、以下の記載もあります。
「その包囲が」
と海江田が卓をたたいた。
「この過小な兵力でできるのか。夢のようなことを言うな」
「出来る」
と、ついに益次郎はいった。
「あなたは戦を知らぬのだ」
げっ、と海江田は怒りのあまりのどを鳴らし、益次郎に詰め寄った。戦を知らぬ、というのは、一軍の参謀に対しこれほどの侮辱はなかろう。
が、益次郎にとっては、海江田観をごく科学的に表現したにすぎない。このいわば失言が、のちのちまで海江田に恨みをのこし、益次郎の寿命をちぢめるはめになった。 (大村益次郎の暗殺の背後には、当時の弾正大忠海江田信義 武次改め がいた、という風評は、ほとんど疑いようのない事実性をおびて今日までのこっている)
海江田信義(かいえだのぶよし) 天保3年(1832) 〜 明治39年(1906)
幕末期は有村俊斎(ありむらしゅんさい)の名で、西郷隆盛、大久保利通、伊地知正治、吉井友実らと精忠組の中心となり活躍。三弟の有村次左衛門は桜田門外の変で水戸浪士らと井伊直弼を襲撃し首級をあげた。次弟である雄助もこの責任を負い自刃している。
彰義隊墓所 東京都台東区上野公園内
境内に残された彰義隊の戦死者は、その後片付けることさえ許されず放置されたままでした。これを見かねた円通寺の住職仏麿和尚および寛永寺御用商人三河屋幸三郎らは、斬首覚悟で遺体の収容に立ち上がり、荼毘にふしました。彰義隊の墓は上野公園と円通寺にあります。
※円通寺は賊軍である幕府側の戦死者を法要できる唯一の寺院として、官許を得ることとなります。
これにより新政府軍は江戸以西を掌握し、江戸は東京と改められました。戊辰戦争の前線は北越から奥羽方面に移っていきます。
大村益次郎の終焉の地(京都 木屋町御池上ル)
以下、『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。
明治二年(1869)八月のことである。政府の顕官となった益次郎は、故郷の年老いた父親に一目会うために旅に出た。そして、九月四日、京都木屋町の宿でくつろいでいるところを、突然刺客に襲われた。
このころ、益次郎の進める廃刀例や、広く国民から兵士を募る民兵など、士族の特権を否定した兵制改革に、すでに各地の不平士族が不穏な動きを示していた。彼はあえてそれを承知で、故郷へ向かう途中であったのである。
やがて二か月後、大坂に移された益次郎は、傷の悪化がもとで四十六歳の生涯を閉じた。
彼は自分の身体の一部を大坂に眠る恩師緒方洪庵のそばに埋めてくれるよう、かつ将来、九州に士族の反乱が起こることを予言し、その備えを命じつつ、帰らぬ旅に出たのである
京都霊山護国神社にある大村益次郎の墓
寛永寺の旧本坊表門