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Last Updated: 4 October 2009

村田蔵六(大村益次郎)は嘉永6年(1853)に宇和島藩からの要請に応え出仕します。第8代藩主伊達宗城は、オランダ語の専門書を翻訳しての船の設計を命じ、蒸気機関の製作を城下に住む提灯屋の嘉蔵(のちの前原巧山)に任せ、蒸気船を完成させます。嘉蔵は司馬遼太郎氏の小説『酔って候』に収められている短編「伊達の黒船」に登場しています。

宇和島城 ※現地案内板より

戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同年13年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後宇和島城と改めた。それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。

宇和島市教育委員会

宇和島城

宇和島城

宇和島城

宇和島城の井戸 ※現地案内板より

この井戸は、現在の城山に残る三つの井戸のうち、最も重要視せられたものである。ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理せられていたと推量せられる。井戸の直径2.4メートル、周囲8.5メートル、深さ約11メートルである。ここは、城山の北側の谷の中腹、三の丸からの登り道に当たり、数少ない城山の遺構の一つである。

宇和島城の井戸

宇和島城の井戸

宇和島城

大村益次郎の住居跡 ※現地案内板より

わが国近代兵制の創設者として有名な大村益次郎は文政7年(1824)3月10日、周防国(山口県)に生まれた。若い頃は村田亮庵といい、大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、門下の逸材といわれた。のち郷里で開業医をしていたが、嘉永6年(1853)八代藩主伊達宗城の招きによって来藩し、名を蔵六と改め、宇和島藩士として蘭学の教授、兵書、翻訳に従事し、また藩の軍制、特に軍艦の研究等にも力を尽くした。益次郎は安政3年(1856)藩主に従って江戸に行ったので、宇和島在住は約2年半に過ぎなかったが、その間に住んでいたのがここ神田川原戸板口であった。

大村益次郎の住居跡

大村益次郎の住居跡

大村益次郎の住居跡

大村益次郎の住居跡

「伊達の黒船」の主人公、堤灯屋嘉蔵(前原巧山)の墓がある西江禅寺

西江禅寺

西江禅寺

西江禅寺

西江禅寺

『酔って候』に収められている短編「伊達の黒船」

宇和島藩に住んでいた嘉蔵は当時最下層の身分の人で、唯一手先が器用なことから堤灯(ちょうちん)の張替えを生業にしていた。そんなある日、ひょんなことから嘉蔵に黒船(蒸気船)を作れないかと依頼がはいる。藩主である伊達宗城(だてむねなり)が黒船を藩独自で作ろうと藩内で人を探していたのである。当然のことながら、嘉蔵は黒船のことは話に聞いたことはあっても、それ以外のことは全く何も知らなかった。嘉蔵は長崎に留学し苦労しながら蒸気機関に関することを必死で学ぶ。帰藩後、試行錯誤と失敗を繰り返しながらも蒸気機関を独力で開発、大村益次郎の支援もうけながら国内で2番目の純国産の蒸気船を完成させた。最初に成功したのは藩をあげて取り組んだ薩摩藩であった、嘉蔵の黒船はほんの数日の遅れであった。司馬遼太郎氏はこの業績を「この時代に宇和島藩で蒸気機関を作ったことは、現在の宇和島市で人工衛星を打上げたのに匹敵する」と評している。